手稲鉱山 三ツ山坑跡  探検: 北の細道 手稲鉱山 三ツ山坑

手稲鉱山 三ツ山坑の偶然と必然




北海道札幌市

  大輝丸事件(だいきまるじけん)は、『尼港事件の復讐』の名のもとに、
大正11年(1922)に発生した、日本の海賊によるロシア船襲撃事件だ。
その首謀者、江連力一郎が逮捕される直前に宿泊していたのが、
かつて手稲区に存在した軽川温泉 光風館だ。

国道からは石畳、豪華な中庭があり絢爛な旅館であったといわれる。
当時の鉄道唱歌には「海水浴と温泉の銭函軽川過ぎゆけば...」と、
歌われているものの、その存在は謎が多い。

地形図で見ると大正5年版には『軽川温泉』、昭和25年版には記載なし、
昭和50年版には『手稲温泉』との記載がある。
軽川温泉時代には前述の光風館という旅館が存在し、
その建設年も明治15年(温泉案内S12)、明治21年(宮の沢時間旅行)、
明治25年(手稲町史)、明治26年(手稲区歴史ガイドブック)、明治35年(温泉案内T8)と、
資料によって混在し、20年間の開きがある。

温泉水の温度も資料により7〜12℃、湧出量も109〜750L/分と 差が大きく、
季節による表流水が混入している可能性が高い。

光風館は昭和15年(1940)頃閉館、その後、三眺荘ヘルスセンターが営業していたがやがて廃業、
昭和30年(1955)に再び北家という旅館が経営を始めるが昭和50年(1975)閉鎖している。


手稲鉱山 はこの軽川温泉の西方4.5qに位置する。
明治20年(1887)頃から試掘はされていたものの、採掘には至らず、
大正2年(1913)の山火事で大規模に焼き払われた原生林のもとに、
鉱脈が発見され、大正5年(1916)手稲鉱山と命名、開坑された。


昭和3年(1928)からは産金時代の始まりとして、三ツ山坑・黄金沢坑が開発、
軽川駅〜鉱山間の索道ケーブルが敷設される。
昭和10年(1935)からは財閥経営となり、昭和14年(1939)には星置通洞も完成、
しかしながら昭和18年(1943)には産金政策打ち切りのため、
銅鉱山として転換縮小となる。

昭和29年(1954)からは荒川鉱業による残鉱掘り経営、
昭和32年(1957)からも千歳鉱業による小規模操業時代を経て
昭和46年(1971)閉山を迎える。


同時期に繁栄した謎の温泉跡地と残鉱小規模探鉱時代の巨大鉱山の末路を追ってみよう。


ダットラ520・立坑跡・小規模製錬所・・・



520
( ̄u ̄;)ダットサントラック1300





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