料亭みどりの小春


手稲区は札幌市西区北部の地区、もと手稲町が昭和42年(1967)札幌市に編入。
地名はアイヌ語『テイネイ』、山霧多く湿潤に由来する。
近年では化学・鉄工・木工などの工業団地となる。 手稲


まずは富岡地区、球徳稲荷大明神から軽川温泉跡の探索だ。
高速道路近くの市街地から入林する。
大正3年(1914)には含有のラジウム量調査から『ラジウム鉱泉』と改称している。 軽川


すぐに付近には石垣や建物跡の遺構が見られる。
『ラジウム鉱泉』と称しているのは昭和7年(1932)の温泉案内のみで、
その他の資料では『軽川温泉』、この名称が通例だったようだ。 建物跡


タンクの遺構が散乱、これは三眺荘ヘルスセンター時代のものだろうか。
大正12年(1923)頃から光風館を中心に一大遊園地の計画が存在し、
昭和2年(1927)の夏には建物や中庭の改築が施工されている。 タンク


光風館跡地付近の平場である。
案内図には『手稲山麓の谿谷に位置し、夏は 「三伏」夏至後の第3の庚(かのえ)の日を初伏、 第4の庚の日を中伏、立秋後の最初の庚の日を末伏、この三つを合わせていう の苦熱を忘れしむ、眺望はなはだ良く、
付近には 「馥郁」(ふくいく)良い香りがただよっている状況 たる 「リリー」(lily)百合(ゆり) の野生地がある』と記載されている。 光風館


付近には祠がある。内部は何もない。
北海道造林合資会社は明治31年(1898)に開拓や山火事で荒廃していた手稲山再生のために
設立された共同出資会社である。 マウスon 祠内部


7か所の苗園から育てた苗木を計画的に手稲山へ移植、
10年間で3,092haへの植栽を進め、その造林経営の功績は高く評価された。
この会社の会合は常に光風館で催されたという。 北海道造林合資会社


山中に泉源のような遺構もある。
流れ出る沢水は水温11℃程度だ。
竜宮城にも例えられた鉱泉の成れの果てだ。 泉源



コンクリート製の受水槽のような痕跡だ。
テニスコートや運動会用のトラックも設備されたというから
その繁栄ぶりも想像できる。 受水槽


こちらは三眺荘ヘルスセンターの遺構のようだ。
本来の温泉法による定義は、水温25℃以上、水1s中の溶存物質の総量が1g以上、
特定の物質の規定量以上の含有、このうち一つの適合が必要である。 三眺荘ヘルスセンター


バター飴の看板が朽ちている。
これは後日調査により、三眺荘のベンチの背もたれのものであった。
資料提供は evisha512様 バター飴


笹薮の奥に鋼製の箱のようなものが見える。
手稲鉱山と軽川温泉の繁栄時期は同様であるが、
どちらの文献にもお互いの名称が記述されないのが不思議だ。 荷台


箱のように見えたものはダットサントラック1300(520型)の廃車体だった。
ヘッドライトが4灯式なので昭和41年(1966)以降のモデルのようだ。
デザインは二代目ブルーバードに通ずるものがある。 ダットサン


運転席のバーハンドルが時代を物語る。
サンバイザーが片側だけなので、
恐らくデラックスでななくスタンダードモデルのようだ。 インパネ


荷台にはオプションのシェルが架装され文字が記載されている。
静かな山荘 海の見える温泉
手稲温泉 北家 手稲ヘルスセンター…確かな痕跡だ。 荷台


その後、星置方面へ移動、乙女の滝を目指す。
手稲鉱山 三ツ山坑方面へのアクセスだ。
付近はハイキングコースにもなっている。 乙女の滝


林道の脇に連続する坑口のようなものがある。
これは5連並ぶ積込施設のようだ。
上部には選鉱施設がある。 選鉱所


上部の選鉱施設はコンクリートの劣化が激しい。
手稲山は中新世中期(1,800万年前)頃は海底で、
500万年前ぐらいから火山活動により隆起、形成されてきた。 選鉱施設


選鉱所の施設が朽ちている。
手稲山頂上は平坦で各局アンテナが林立している。
これは後志火山群特有のフラットラバ(平坦面溶岩)によるものである。 選鉱所


数次の噴火で岩盤の裂け目にマグマが溶け込んだ熱水が封入、
冷却時に石英・重晶石脈が存在、
含まれたのが金・銀・銅・テルルなどとなりこれが鉱山の幕開きとなる。 選鉱所


すこし登坂すると、金山神社付近に遺構が残る。
手稲鉱山の産金量のピークは財閥経営時代 昭和16年(1941)の1,650s/年。
昭和15年(1940)の星置通洞そして浮遊選鉱場と青化精錬所の建設翌年のことだ。 金山神社


付近には大きな石垣があり、宅地だったようだ。
ピーク時期の従業員数は2,000名を超え、
7,000人以上が住む街が完成していた。 石垣


周辺は区画された住宅地のようで、
下水や貯水の設備が整然と並ぶ。
戦局が進んだ昭和18年(1943)、全国の金山は整備令により休閉山となる。 貯水槽


索道の中継地だろうか、ワイヤーが残る。
昭和18年(1943)から終戦までは銅の生産に転換、
操業規模も3万t/月に縮小、従業員340名が炭鉱等に移籍した。 索道


大きな建築物の基礎もある。
昭和21年(1946)には銅の価格差補給金が撤廃され、
いよいよ操業が停止する。 社宅


煉瓦製のかまどが数か所残っている。
変電所などの設備撤収と共に、20名程度で高品位残鉱の採掘を行うが、
昭和28年(1953)には財閥からの脱却、子会社の経営となる。 かまど


鉱水処理施設を超えて三ツ山鉱区へ入る。
昭和30年(1955)からは品位の劣る拾い鉱が行われ、
産金量は26s/年とこれはピーク時の1.5%である。 三ツ山坑


いよいよ三ツ山坑に接近する。
昭和32年(1957)以降は小規模に低品位鉱の活用を進め、
72s/年の産金量にまで回復している。 三ツ山坑


この辺りが立坑跡付近で積雪で確認はできなかった。
三ツ山坑には滝ノ沢・南北・第三露頭・鳥谷部・テルル・
三光の坑道が存在した。 立坑


上流の斜面には塞がれた坑口が存在した。
これは斜坑のようだ。
昭和15年(1940)当時、通気については扇風機を使用しない自然通風であったらしい。 滝ノ沢


斜坑は厳重に封鎖されている。
内部は真の闇で風の音だけがある。
坑口が多いことが、自然通気の理由だったらしい。 マウスon 斜坑内部


再び滝ノ沢川上流域を目指すと石垣が残存している。
金鉱石の採算性ボーダーラインは2〜20g/tと言われる中、
手稲鉱山では10〜20s/tの金が採掘できた鉱脈が存在した。 石垣


上流には中規模のRC製の遺構がある。
これは昭和32年(1957)以降の低品位鉱活用時代に建設された、
小選鉱場の廃祉だ。 選鉱所


上部には選鉱施設が広がる。
粗鉱を手選でズリと分離した後、
クラッシャーで12o程度に破砕する。 選鉱所


上部の穴は鉱石の投入口。
ボールミルで更に摩鉱し浮遊選鉱用の原鉱を作る。
浮遊選鉱は特殊な薬品を用いた、親水性を利用する選鉱方式だ。 選鉱所


木々が大きく育っている。
鉱物表面が液体に馴染みやすいか、
弾きやすいかの差を利用した選鉱方法である。 選鉱所


氷柱が光を浴びている。
空気を送り込んだ水中でぬれにくい鉱物の粒に気泡が付着、
浮き上がったものを回収する。 選鉱所


斜面を利用、上部から鉱石を落として処理するカスケード方式だ。
浮選機では処理後、
精鉱・原鉱・尾鉱に区分される。 選鉱所


そびえる選鉱所。
精鉱はほぼ完成品で乾燥後は直島製錬所(香川県)に送鉱される。
原鉱は青化処理に、尾鉱は廃滓堆積場へ破棄される。 選鉱所


手稲駅近くに近年まで『旅館(料亭)みどり』が存在した。
普段は閑散とした客の入りだったが、
2階には16畳の書院造、銘木の床の間を備える豪華な部屋が存在していた。 選鉱所


溶液槽が凍結している。
昭和初期のゴールドラッシュの恩恵で、
料亭みどりは大繁盛する。 溶液槽


付近にはズリ山も残る。
当時の料理は3円程度が標準であったにもかかわらず、
手稲鉱山からの依頼は一人20円の料理、その盛況ぶりがうかがえる。 ズリ山


南部の黄金沢方面へ移動する。
昭和15年(1940)、鉱山幹部の要求で東京柳橋の芸者『小春』が来道したのも、
必然の成り行きだ。 ズリ山


送電ルートに沿って登坂する。
軽川駅に降り立った小春は鶴の形容が似合うものの、
気立ての良さと女中と一緒に拭き掃除までする高ぶらぬ態度が好評だったという。 送電ルート


搬出が豊かだったころの軽川向け索道起点である。
小春は短命で、手稲鉱山の閉山と共に、
静かにこの世を去ったそうだ。 索道


黄金沢のズリ山跡である。
小春の死後、手稲鉱山そして光風館を結ぶ
不思議な運命が明かされることとなる。 ズリ山


東京から偶然、手稲『料亭みどり』へやってきた芸者小春。
彼女の父親はなんと光風館へ宿泊した、大輝丸事件の首謀者、江連力一郎であったのだ。
鉱山、温泉そして料亭を繋ぐ目に見えぬ一本の糸のようだ。 ズリ山










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