鴻之舞との坑道接続
鴻之舞鉱山の下流、上藻別付近から山に入る。
大正3年6月に地質学者をはじめとする一行による鉱床発見、
5名による鉱区の共同出願がなされた。
鉱山跡へ向かう道には開拓農家らしい廃屋が朽ちている。
共同出願後の鉱区は実は非常に低位品位で、採掘には至らなかった。
しかし一人の山師だけが本鉱区を見捨てなかった。
アクセス道はご覧のような獣道と化している。
十年間に及ぶ野外探鉱の結果、
高品位な転石も発見されるに至る。
廃道付近にはズリの痕跡も確かにある。
昭和6年からは探鉱小屋を建築して本格的な初期探鉱が開始され、
札幌からも経験者を山長として迎えた。
標高120m附近の沢沿いを進む。
昭和7年5月には『天狗坑』と呼ばれる大露頭をはじめ、
その他十数か所の露頭の発見に至った。
辛うじて道のようにも見えなくないが廃道であるのは確かだ。
露頭が多数発見されながらもその品位は低くかった。
やがて発祥坑・黄金坑・万歳坑の坑道掘削がなされた。
右岸の斜面に人工物が見える。
坑道掘進後、茨城日立鉱山へ鉱石を試送したが、
低位品位で成績不良との回答であった。
規模は小さいが精錬所への到達だ。
やがて手選方法を変更し、再び鉱石を三菱直島製錬所に送鉱したところ、
品位が確保でき、ようやく軌道に乗ることとなる。
製錬所はカスケードタイプながら独特の形状だ。
その後
鴻之舞鉱山
から買鉱の申し入れがあり、
品位5g/t以上で採算可能となり、馬橇による冬季搬出が行われた。
製錬施設は幅40mほどでほんの一部が残存しているようだ。
鴻之舞側の期待も厚く、
昭和8年12月には住友への売山が成立する。
水槽などRC製の遺構が続く。
鴻之舞側クチャンナイから本六線沢に続く大切坑道の掘削も進んだ。
これは大規模計画過ぎて、期待の効果には至らなかった。
大切坑道により鉱区の全容が解明され、
結局当初の鉱区が富鉱地帯であり、
昭和11年〜15年にかけて、日産出鉱量100tの時代が数年続いた。
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