山中の娯楽を支えた厄介者たち


阿寒町徹別。
何度となく訪れている雄別炭鉱だが、
今回のレポートは初冬と春の複数アタックによるレポートだ。 雄別


雄別市街地(標高105m附近)から下辛川を挟んだ東側山中、
進むと植生の無い一山が現れる。
標高300m附近、かなりの山中だ。 ホッパー


これが雄別炭鉱のズリ山である。
それは上砂川炭鉱 のようなシンメトリーな円錐型ではなく、
かなりの幅のある山肌となっている。 ズリ山


ズリとは鉱石としての価値のない脈石(みゃくせき)などの岩石の総称だ。
閉山後50年で植生が戻りつつあるが、
周辺の山々と比較するとその密度は低い。 ズリ山


ズリ山尾根部分には廃道が通過している。
やはり人工の殺伐とした風景だ。
標高200m差を乗り越えて、ズリを運んだその痕跡を探してみよう。 廃道


鹿の角があちらこちらにある。
広大なズリ山の頂上を目指す。
途中には廃車体なども残存する。 鹿角


頂上付近、 崖に面した一角にコンクリート製の基台がある。
これは上部索道の終点部分だ。
ここまでケーブルに連ねられたゴンドラが来ていたのだ。 基台


基台はかなりの規模がある。
索道とは鋼索(鉄製ケーブル)に運搬器を連ねて吊るし、鉱石を運搬する装置である。
ロープウェイやスキー場のリフトもその仲間だ。 基台



基台の先は絶壁の崖だ。
索道は生産量が増大した昭和42年(1967)廃棄され、
その後、効率の良いベルトコンベアに取って代わることとなる。 崖


崖下を遠望すると、眼下には煙突や雄別炭鉱病院跡が見える。
標高320m附近からの眺めだ。
そして正面の尾根上には索道の中間中継台が見える。 マウスon 遠望


ズリ山から索道中継地点に向けて降下してみよう。
付近は絶壁で鹿道さえ無い。
帰路のアプローチを十分考慮して進む。 ずり山


激しい傾斜の斜面を下る。
山間部の輸送設備はその設置コストにより左右される。
曳索(コース巻きなどのトロッコ)、軽便鉄道、ベルトコンベア、そして架空索道などが予定される。 斜面


斜面下部には遺構が残存する。
月当たりの必要運搬量から毎時の輸送能力を算出し、
建設費と運行の電力等輸送費を比較する。 遺構


斜面上部を振り返ると、扁平した隧道が存在した。
勾配に有利なベルトや索道は土木工事・車両費が抑えられる反面、測量設計に多大なコストがかかる。
隧道等が不要な架空索道が最も建設費を抑えられるが、輸送容量が少ない。 隧道


隧道内部は急勾配で続く。これは後のベルトコンベア用の隧道だ。
曳索・軽便は鉱車数、速度、複線化などにより運搬量増大に対応できるが、
コンベア・索道は設計輸送量以上の対応は困難だ。 隧道内部


隧道の断面積は小さく、高さが低い。
道路・鉄道の隧道断面積は20〜30m2、本隧道は7m2程度。
屈曲点を少なくした上での、隧道工事費を抑える方策だ。 隧道


隧道の覆工は200o程度のコンクリート巻立てで、
これは薄い部類に入る。
岩質と角度、コストのバランスを取った結果だろう。 覆工


隧道は60m程度で埋没、通り抜けはできない。
ベルトコンベアの利点は運搬距離が増加しても能力の変化が少なく、
そのため、所要人員も少なくて済む。 閉塞


ベルトコンベア用の橋梁も残存する。
運搬能力が大きく設備投資も少、
ライン途中からの運搬も容易で、事故・故障が少ない。 ベルトコンベア


下部には鉄塔があり、これもズリベルトの痕跡だ。
生産量が増加した昭和42年(1967)、1億2千万円の巨費を投じ、
架空索道からベルトコンベアへとその運搬経路は変更された。 索道


ベルトコンベアの支柱である鉄塔が凛々しく残る。
索道の場合、冬季夜間などに鉱石を長時間積載のまま放置すると、
搬器内中で凍結、排出困難となる場合がある。 マウスon 総合ボイラー煙突前部が当時のベルトコンベア


搬器のように見えたが、これはベルトコンベアを覆うカバーのようだ。
索道では送鉱終了後一定時間は空搬器を空送、実搬器を一掃する必要があり、
実輸送時間の減少、所定時間内の完送困難の一要因となっている。 搬器



ベルトコンベアの問題点は、そのベルトの選定及びコストだ。
ケーブル・スチール・ナイロンベルトコンベアなどがあるが、
引張、ゆるみ側(上下)の張力差によるベルトずれ=ベルトクリープが懸念される。 橋梁


別のズリベルトの支柱の後部には再び隧道が見える。
コース巻きなどの機関運搬とベルトコンベアの採用条件は、
設備投資額や運搬人員などの運搬費をもって比較される。 渡渉


ここの支柱にはワイヤーが色濃く残る。
1t当たりの運搬費を比較すると、距離2,000m以下の場合は2,000t/日以上、
3,000m以下の場合は4,000t/日以上運搬すればベルトコンベアの方が経済的に輸送密度は高くなる。 ワイヤ


二基目のベルトコンベア用隧道である。
当時のコンベアの種類はナイロン主軸のNNBC、スチール主軸のSCBC、
ケーブルと併用されるCBCがある。 隧道


隧道内部は急角度で下っている。
CBCはベルト両縁をロープで支えるため、
強度や滑りの観点から幅900o以下となる。 隧道内


幅900oのCBC最大運搬量は560m3/hであるので、
それ以上のピーク運搬量が必要な場合は、
ベルト幅を広くできるNNBCやSCBCの採用が必要となる。 ワイヤ


隧道内には角度計のように氷筍が育っている。
NNBCとSCBCではスチール軸のSCBCの方が張力は大きいため、
よりロングスパン(2,000m以上)の場合にSCBCが採用される。 氷筍


隧道の奥80m附近から激しく埋没している。
ベルトコンベアの寿命は償却年数でなく、
ベルトの寿命をもっての実耐用年数で計られる。 滝


鋼製支保工が骨のように剥き出た埋没個所。
ベルトの寿命はゴムが摩耗して 「心材」ゴム層の間にある強度を高めるための帆布層やスチール層 が露出または破断するまでで、
これはゴム厚、対応運搬量、使用条件、運搬物の種類による係数で判断される。 支保工


隧道坑口を振り返る。
心材の疲労はプーリーによる彎曲作用の影響が大きく、
曲げによる疲労度が耐用年数を左右する。 ハードルート


隧道坑口から上部を見上げると、
そこは絶壁だ。
出来れば索道中間支点まで到達したいが。 斜面


角の残る鹿の頭蓋骨が転がっている。
ベルトコンベアの能力は200t/時、
索道は120t/日である。 鹿


標高250m附近で更に絶壁となった。
これ以上の下降は危険と判断、ここで冬季探索は中止とした。
索道中間支柱は遠望ながら到達できず断念となった。 絶壁


変わって春季探索。
今回は舌辛川沿いの炭住跡地からのアクセスだ。
ここから標高210m付近を目指す。 炭住街


炭住街には浴場や多数の社宅跡が残る。
かつては12,000人が住んだ街。
索道に向かって登る。 炭住街


これは索道の搬器、つまり鋼製ワイヤーにぶら下がるズリ運搬用のバケットだ。
貫いた木の太さが時代を物語る。
下部のボス部分で吊り下げ、そこを支点にバケットは回転する。 搬器


斜面に沿って輪車路のような獣道が残る。
付近の炭住では鮮明なテレビ映像を見ることができた。
しかしそれは一部の地域であった。 輪車路


斜面にはレールが残る。
NHK釧路放送局の映像は特にシャープで、
山間の集落とは思えないほどであった。 レール


斜面の中腹には碍子や電柱の遺構がある。
これはテレビ共同聴視施設の痕跡だ。
中継アンプを介して、テレビ電波を増幅したのだ。 マウスon 電柱


ここからは鹿道の斜面を一気に登坂する。
ズリ山に8素子のアンテナと真空管ブースターを設置。
索道搬器折り返し地点に分配機があった。 登攀


斜面の最上部にはRC製のタワーが存在した。
これが冬季に上部から遠望していた索道中間支点だ。
武骨な外観だ。 マウスon 総合ボイラー煙突背後が当時の架空索道


中ノ沢選炭施設から約1qの区間を運搬したズリ用索道施設。
その中間尾根に存在する索道の中継基台である。
高さは15m程度、シンメトリーのラーメン構造だ。 支柱


ズリ索道という末端の施設に、テレビ電波増幅の設備を付加して、
一部の社宅に鮮明な映像を供給。
それは山中の娯楽として重宝されたはずだ。 マウスon 当時のコンベア






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索道中継施設
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