繁栄の予言、通洞による衰退


釧路湿原は水に浮いていると言われるほど湧水が多い。
湿原では植物の未分解物が堆積し、泥炭という土壌が形成される。
枯れ植物の養分が豊富な水流で流され、バクテリアなどの活動が弱まるためだ。 岩保木


舌辛川にそって上流域へ向かう。
坑口の分散に伴い、炭住街も4か所に分かれたが、学校や病院の区分けにより
然別・中ノ沢地域と大曲・大祥内地域の2か所の中心街が存在したようだ。 舌辛川


坑口は左岸に存在し、舌辛川を渡渉する必要がある。
街の形成と共に商店は増加したものの、全ては会社の指定商であった。
また大正時代には雄別炭鉱だけで使用可能な私幣 「山札」(=やまさつ)賃金の一部として支払われ、現金が外部に漏れるのを防止。 後に『魚菜券』と呼ばれた も使用された。 左岸


付近の対岸にはかなり旧いトラックが横転している。
昭和39年(1964)登場、プリンス自動車のホーマーのようだ。
後部は損傷激しくキャブオーバー型なのかはわからない。 ホーマー


大祥内二坑付近にかかるアバット(橋脚)である。
雄別に電気が引かれたのが昭和2年(1927)、
これまで蒸気機関に頼っていた設備の電化が進むこととなる。 二坑


対岸には封鎖された坑口が残る。
これは大祥内坑片盤人道坑口である。
つまり通気用坑道の連絡用歩道である。 坑口


片盤坑道とは炭層の傾斜に沿った斜坑道からそれを中心として、
70〜120mごとに、傾斜している 「地層面」表面は積み重なる地層と地層が接した面「水平面」重力方向に垂直な平面 が交わってできる直線方向である
走向にほぼ平行な水平坑道を掘削して展開する準備坑道のことである。 片盤


その人道坑口の左手には別の坑口がある。
これは形状から扇風機風洞のようだ。
坑口手前には台座も残存している。 風洞


これは大祥内坑片盤排気扇風機坑口である。
大祥内には稼行坑口として、延長900m、斜度26°の一坑と、
延長940m、斜度13〜18°の二坑が存在した。 風洞


ここは、これら2本の斜坑に共用で機械通風を行うための風洞跡だ。
もちろんすぐに坑道は封鎖されている。
風洞のフランジに鋼管が接続されていたのである。 風洞


開坑以来、複数個所で採掘してきた雄別炭鉱だが、
大曲選炭場までの軌道はたびたび洪水決壊し、
坑口の集約が急務とされたのである。 扇風機


大祥内から中ノ沢の通洞が繋がったのが昭和11年(1936)で、
苔樋地域等の採掘範囲拡大のため、すべての旧坑を繋ぐべく北西への坑道延長が進められた。
それが昭和13年(1938)完成の雄別通洞坑口である。 マウスon 雄別通洞


これは坑口前の扇風機台座である。
134Kw、毎分424立方mの風量の扇風機により、
坑内の排気循環を司ったのである。 台座


「昭和13年」日中戦争勃発の翌年、軍需景気の到来 の雄別通洞坑口完成後はすべての出炭が通洞を介して行われ、
坑外の諸設備が中ノ沢地域に集中することとなる。
そのため不要となった大祥内坑は42年の歴史に終止符を打った。 坑口


明治24年(1894)の『北海道鉱床調査報文』による調査は限られた小地域であったが、
道路もない現地において、石炭の輸送路が阿寒開発の上で重要であると定義している点は、
それから30数年後に実現した雄別鉄道による発展を予言していたのかもしれない。 アンカーボルト






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坑口
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