幌別鉱山跡  探検: 北の細道 幌別鉱山

幌別鉱山で排気坑に遭う




北海道登別市

  昭和48年の閉山から41年が経過しても、酸性坑内水の流出は続いている。

金・銀・銅鉱床としてすでに開坑されていた幌別鉱山 岩ノ崎・旭鉱の、
別鉱床として開発された弁景(黄渓)地区の硫黄鉱床は、
明治44年にこれらも含めて「幌別鉱山」と呼ぶようになった。 

先出の坑内水は中和処理施設が稼働しているが、
その流量は季節的に大きく変動し、4〜5月の融雪期がピークとなる。
施設の処理能力をも超える場合は、貯水池に貯留するなど、
その対策が現在も講じられている。

来馬山西方中腹に分布していた本坑は、
精錬後の硫黄鉱を架空索道にて壮瞥町久保内に輸送していたが、
繁栄を極めた昭和27年当時は、精錬所をはじめ学校や病院も併設する、
従業員300人、2,500人が居住する山上の巨大都市であった。

大正5年〜8年にかけては、日本第一の産額を上げ、
常に松尾鉱山と覇を争った。


鉱床図で確認すると31か所の坑口の記載があり、
再々訪の廃坑跡で坑口発見という成果に達した。


水路・精錬所・坑口・・・


来馬山
( ̄u ̄;)来馬山



トップページへ