炭住街から運炭場へ遡る
上新町、右本町、左本町、中高台・・・多くの街があった。
内部も探索してみよう・・・
付近の人口は全盛期で約3,800人。
奥には明らかに自然の色合いとは異なる赤い建物が目視できる。
そのあまりの迫力に絶句する。
その窓のガラスは割れて、木の枠だけが現存する。
道から溝を越えて、建物の内部に侵入する・・・。
内部
タイムスリップしたような感覚に襲われる。
どの部屋にも酒瓶があり、中には今は無き意匠のジュース缶もある。
林立する廃墟群の谷間を、成長した木々をかき分けかき分け進む。
この付近には配給所や労働組合事務所もあったらしい。
昭和20年代中盤、好転した石炭業界であったが、
輸入重油と外国炭の買い入れなどから、
国内石炭は生産過剰、そして単価の暴落に繋がる。
ここで石炭業界は自主的に出炭制限、そして政府の石炭政策臨時措置法が公布される。
しかし皮肉にも国内経済は好転、神武景気を迎え、
好況の兆しが見えた。
その後、昭和30年代にかけてのエネルギー革命は、
需給構造の変化が進むこととなり、
炭鉱の合理化は避けて通れない局面を迎える。
昭和・浅野地区においても本町人口の40%が炭鉱関連で占めていることが関係し、
経済状況を石炭鉱業に依存している産炭地は、
石炭企業の合理化や縮小が顕著に地方財政の衰退を招くこととなる。
政府はこれら諸問題を抜本的・総合的に解決するため、
産炭地保護のための審議会の設置、臨時措置法の策定など、
昭和30年代後半、あらゆる手を尽くしていく。