「金屏風」と称された元山第二鉱床
流氷の接岸で有名なオホーツク紋別。
現在は人口23,000人、閉山直前の昭和41年(1966)は42,000人、
最盛期の鴻之舞山中には物品配給所、鉱山病院、恩栄館(集会所)、3,000戸の従業員住宅が谷を埋め尽くしていた。
まずは藻鼈川(もべつかわ)とクチャンナイ川合流地点である山王鉱床の探索だ。
道々から上藻別6線沢林道を南下する。
鉱床図には山王鉱床にも7か所の坑口が記載されている。
鉱床図の導く付近には何も残存していない。
大正3年(1914)金鉱露頭発見の古い山王鉱山。
ここが鴻之舞の発端となった。
クチャンナイ川を渡る軌道の
「アバット」橋台=橋の両端で盛土との取付部分
である。
山名は当初「久保之舞」そして「久宝能舞」が候補とされたが、
自然で詩趣もあり、発展の象徴を祈願して「鴻之舞」とされたと言う。
道々に戻るとあけぼの町跡付近、ここは浴場跡だ。
当時、四か所の配給所、総合グランドにプールや武道場「光風殿」と
管内でも誇る施設が充実していた。
道々を遡ると東側には沈殿池である。
昭和9年には豪雨により沈殿池が決壊し、遡上していた鮭に影響が出ることもあったようだが、
現在までに五か所の沈殿池で滲出を防止している。
沈殿池の西側に位置する倶知安内坑付近へ入る。
崩れた廃屋が残存している。
大正期より探鉱された元山坑に比較して、昭和4年から探鉱された倶知安内坑は比較的新しい。
倶知安内5号坑付近の退避坑である。通洞とは異なり小さな坑口である。
昭和11年の倶知安内坑の着脈により延長1,800m、幅10m、深度500mという、
名実ともに我が国第一の含金銀鉱床と呼ばれるようになった。
倶知安内坑に付随する沈殿池跡である。
製錬法は微粉化した鉱石を青化ソーダ(青酸カリ)に溶解させた後、
亜鉛沈殿槽内で還元させて金・銀を抽出する。この青化ソーダが猛毒である。
更に山中に進むと坑口が現れた。
昭和7年に開坑した倶知安内第一通洞だ。通洞とは山腹から水平に掘削した坑道で、
主に運搬・排水・通気を目的とする。通洞の比率は鉱山が80%、炭鉱が18%と大きく異なる。(マウスON)
さらに奥には再び小さな坑口である。
恐らく昭和4年開坑の倶知安内5号坑金子坑道だと思われる。
金山の採算ベースは1g/tの金含有に左右される。ここ鴻之舞はなんと品位52.5g/tを記録している。
坑口は完全に密閉されている。
個人所有の鉱区を買収後、当初、本坑は鉱脈の発見に至らなかった。
坑夫頭の金子氏の熱意により、開削を進め品位10g/tの鉱脈発見に至りこの名が付いたという。
付近の森にはスズメバチの巣が落下している。
これはキイロスズメバチかコガタスズメバチだろうか。
初冬のシーズンだったため事なきを得たが十分な注意が必要だ。
更に奥に進むと足元には人工物が。これは間違いなく青化精錬の跡だ。
金液槽か液溜槽のようだ。青酸カリ液は通常繰り返し使用されるが、
鉱滓の水分の2%程度が微量の青酸カリを含むこととなる
その上部を見上げると巨大な製錬所の体躯が横たわる。
大正13年に62t/日処理規模の全泥青化法による製錬所を皮切りに、昭和7年には350t/日の第一次拡張工事、
恐らくその製錬施設だと思われる
再び道々を登ると昭和24年廃線の藻鼈川を渡る鴻紋軌道の跡がある。
鴻之舞南北5.5qの市街地と名寄本線紋別駅を結ぶ全長28qの鉄道跡だ。昭和18年完成とあたかも鉱山整備令と重なり、
鉱石輸送ではなく休山の鉱山設備の転用輸送に従事することとなってしまった。
栄町跡との看板の上がる集落跡地だ。
昭和17年3,000t処理の製錬所完成の翌年、皮肉にも戦時下孤立により、金の持つ国際的意義を失った日本は、
直接戦力に結び付く銅・鉄・水銀の増産に方針転換し、各金山は一斉休・廃山となる。
道々を跨ぐ元山索道の跡だ。
昭和18年からは人員・資材の転用が進められ、山元残留646名を残し、
スマトラ・ジャワ他国富、別子(四国)、赤平にも多く配属転換された。
冬季の風景だが奥には巨大な製錬所が残存する。
かつての3,000t/日処理製錬所跡地に休山復旧後の昭和26年、600t/日処理施設が完成した。
翌年には第三次復旧となり、1,200t/日規模の操業拡大が進められる。
道々の両脇には社宅跡が広がる。
給与住宅と言われた社宅は職員向けと鉱夫向けに大きく区分された。
家族持鉱夫住宅は9種、給与の一部として企業が無償提供した住居である。
これは便所か石炭小屋のようだ。
第一号式は便所共用、第二号と七号式は床の間がある。
給与体系同様、貸与住宅も細分化されていたようだ。
これは軌道の
「ピア」橋脚跡だ
。
旧製錬所へのトロッコの跡であろう。
コンクリートの劣化は少ない。
これは共用便所のようだ。
住居とは隔離されながらも廊下で連結され、
衛生上合理的で、共用廊下部分も冬季は有効利用されたようだ。
給湯器の残る長屋跡。
昭和9年以降は職員と鉱夫の中間職「助手制度」が確立されたらしい。
住居においてもその点は明確だ。
一部の壁だけが残る建物跡。
助手社宅は規模は鉱夫社宅と相違ないが、すべての部屋が畳敷きで板張りの部屋はなく、縁側がある。
そこが明確な階層差の要素だったようだ。
この煉瓦製の建築物はボイラー等の施設だと思われる。
鉱夫社宅と職員社宅の差はさらに明白で、
鉱夫社宅の2倍の規模、畳敷き3部屋、20帖以上が確保されていた。
比較的劣化の少ない2階建ての建物も残る。
鴻之舞には昭和15年、商業組合が結成され、
また家庭用石炭の廉価配給も実施された。
井桁マークの蔵が残存している。
昭和36年の藤島鉱床発見以来、新鉱床の発見には至らず、
昭和46年には「鴻之舞鉱業所」から「鴻之舞鉱山」へと改称、これは規模縮小を意味する。
草むらに眠る小型トラック「三菱ジュピター」である。
昭和34年(1959)発売、生産中止からは40年以上経過している。
当時トラックは積載量2t以下か5t以上とその中間機種がなかった。(マウスON)
その間を埋める2.5〜3.5t積みとして販売された車だ。
排気量2,199cc、当時三菱は水島・名古屋・川崎でそれぞれ自動車を作っており、
ジュピターは三社合併(=三菱重工業)前に水島製作所で生産されていた。(マウスON)
地下通路のような廃祉もあるが用途は不明。
鉱員社宅200戸毎には世話所、従業員倶楽部、魚菜市場もあったという。
街の頭上には鉱石や物資を運ぶ鉄索が山を越えて走っていた。
鉱員社宅の南方には鉱山の積込施設のような廃墟も残る。
鉱山と丸瀬布間22qを結ぶ鉄索「鴻丸索道」は昭和7年に完成。
石北線開通とも相重なって沿線小金山からの買鉱にも一躍買った。
北に進むと元山坑だ。
そして到達したのは大正14年完成の、元山第二通洞である。
この着脈にて花形鉱山、そして別子鉱山(四国)に代わる金庫と称された。(マウスON)
坑口には酸欠等の注意事項が明記してある。
酸素濃度は18%以下では卒倒、重大事故に繋がる。
もちろん坑口は施錠され入坑はできない。
奥には土留めと坑口が見える。
おそらくあれは火薬取り扱いの施設であろう。
元山坑の中心部である。
四方を恒久的な土手で固められた内部には、火薬庫がある。
昭和18年の金山整備での休山において、ほとんどの金鉱山は廃坑に追い込まれたが、
例外も存在した。
火薬庫の先には元山第三通洞の坑口である。
昭和2年完成、鴻之舞鉱山が大金山であるという、
確固たる地位を築いた坑道である。
道々をさらに遡ると社宅アパートの廃祉が連なる。
金山整備令では銅やその他重要鉱産物を産出する鉱山は金山であっても、
その操業継続が認められた。
戦後終結後の将来に備えて、大規模な金鉱山は、
「保坑」後に再開できるように坑道等を維持管理する
することが認められた。
鴻之舞は金・銀鉱山であるため休山とは相成ったが、大金山であるが故、保坑鉱山に指定された。
昭和18年から本格再操業の昭和24年までの休山期間、
残留した保坑人員たちは延長32qにわたる坑道を整備、護り、
食糧事情の悪化した施設撤去の廃坑で平和と再開を期待していたのだろう。
春の変電所跡。
当時、山中深くでは約1,100名の人々が暮らしていた。
それこそ家族ぐるみでの生活であったという。
鴻之舞から丸瀬布方面に12q。その峠は「金八峠」と呼ばれる。
石北本線と鴻之舞間のルート検討において、新道路ができることは
その地域の産業開発が促進することを意味し、その誘致は死活問題となる。
道庁/支庁からの調査官を歓迎するため、登場したのが、
丸瀬布の旗亭美濃屋に働く金八という芸者で、調査に来たお客さんのもてなしにおいて、
多大な貢献を行い最終的に丸瀬布ルートに決定、峠掘削の折、彼女の名前から命名したという。
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