広域調査・精密調査・企業の探鉱




市街地東方の岩尾岳(1000.3m)は古くから天気予報の山として知られ、
農耕期に雲がかかると冷害の兆しがあるという。
天塩川の治水、農業開発、電源開発の3点を目的とした岩尾内ダムは昭和42年に5年の歳月を投じて完成した。 岩尾内ダム

旧朝日町市街地から下川町へ道々101を北上する。
標高340m付近から山へ入る。
残雪の林道を進むが、宿舎や事務所の遺構は既に無い。 道々354


専用道路を遡り、ズリ捨て場付近まで到達した。
爆薬庫、火工品庫も痕跡は無い。
このまま沈殿池を目指す。 ブロック塀


ブロック塀上から沈殿池方面を遠望。
第2次精密調査の舞台となった現地は、
坑外設備の敷地借用、作業道、宿舎仮設工事等も順調に進んだ。 ずり捨て場


沈殿池の廃祉だ。
ここは整備が施されているのか、
劣化は激しくない。 沈殿池


残雪に残るエゾシカの足跡。
ここにも火薬取扱所があったはずだが、
その痕跡は既に無い。 鹿


そして坂を登りきると広い空き地がありその奥に二連の坑口が。
昭和50年9月、国・道・事業団・鉱業権者・下川、朝日各町関係者がここに一堂に集まり、
優良な鉱床確認と工事の安全を祈願し盛大な起工式が竣工されたという。 構造坑道


向かって左側が「本斜坑」右側が「連斜坑」である。
2本の並列した斜坑は100mごとに水平の「目抜坑」で接続されている。
「切羽」(きりは)坑道採掘、掘進の最先端 にはずり積込機、それを10tトラックに積み込み目抜坑で転回、運搬を行う国内初の形式であった。 。 坑口


本斜坑には鉄索が施されている。
こちらは延長2,200m。
昭和49年のオイルショック以降、61万円/tの史上最高高値の銅価は翌年急落する。 本斜坑


連斜坑には小さな扉がある。
こちらは延長1,527m。
昭和51年には下川鉱山が銅価下落の影響で本社から分離、 独立会社となる企業整理の暗い影を落とす。 連斜坑


この坑口前の広大な空き地には、修理工場・受電室・圧気室やファン室、燃料庫が犇めいていた。
昭和55年には鉱業権者への費用負担などを理由に、調査事業は遅延、
坑道掘進にても優良鉱に胚胎せず、構造坑道は中止し試錐(ボーリング)工事に切り替えることとなる。 坑口前


火工所付近から施設下部を望む。
現地では3日間、精密調査検討委員会が開催され、
有望な鉱化体を発見できず昭和55年をもって調査中断との結論に達した。 坑口から


ところが総事業費12億円の第2次精密調査は当初の事業計画を消化しておらず、
今後の銅を巡る国際情勢の変化や、銅価の推移により再開の可能性を含む状況となっている。
中断後40有余年、構造坑道は残され、現在も鉱業権者による維持管理が施工されている。 火薬取扱所跡







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本斜坑
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