登和里精密調査跡  探検: 北の細道 登和里精密調査跡

登和里精密調査跡でトラックレス工法に遭う




北海道旧朝日町(士別市)

   今回公開する鉱山は正式には鉱山では無い。
昭和41年に道内でただ唯一、国による鉱床調査の指定を受け、
「金属鉱物探鉱融資事業団」高度成長期の資源開発を背景にS38に設置された 優秀鉱床発見のための国の機関 による鉱床精密調査が施工されたその施設跡だ。

つまり、採掘・製錬・運搬といった作業を伴う営利目的の鉱山では無く、
あくまで国+道+開発局による銅鉱床の調査のみが行われた広域事業施設だ。


登和里(とわり)は下川町と旧朝日町のほぼ中間に位置し、明治43年に御料貸付により、
福島・奈良県の32戸が転入入植し開拓が進められた。


昭和16年(1941)から開発着手された下川鉱山の鉱床は朝日町界にまで接し、
登和里地域の埋蔵徴候も予想されていたものだった。

やがて非鉄金属の需要拡大、国内鉱物資源の開発促進、安定供給体制の確保が重要視され、
国の助成金を基に、探鉱促進が加速することとなる。



昭和40年に下川町と朝日町は国と道に対し、下川鉱山の大規模開発と、
周辺地域の産業振興を目的として、
「下川地域における金属鉱床の広域調査事業実施について」の陳情書を提出し、
翌41年には早くも金属鉱物探鉱促進事業団による化学・電気・物理探鉱が施工された。


広域調査の良好な結果を踏まえて、昭和44年9月から下川町町界から岩尾内ダムを結ぶ線上に、
第一次精密調査として、坑外ボーリング13か所、3年間に亘って探査が行われ、
南部や深部においても鉱体を確認することとなる。


ところが第一次精密調査の結果、明るい見通しが立ったにも関わらず、
銅価格が昭和41年(1966)の54〜55万円/tをピークに値下がりし、
昭和46年には39万円/tとその70%に留まる状態となってしまった。


それらを踏まえて精密調査は一時中断と相成るが、
昭和48年からの銅価格上昇と両町の熱心な再開陳情が功を奏して、
昭和50年から登和里地区の複合岩体深部調査のため、
7年間に亘り、第二次精密調査として構造坑道方式による施工がされるに至る。



国内初の坑道形式、鉱床調査中止に至る経緯、そして残された構造坑道の理由、
それらを紐解き、現地の杜を歩いてみよう。









本斜坑・連斜坑・トラックレス・・・



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