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 勧進帳 
勧進帳                                          (敬称略)
八十才の「弁慶」も、史上初めてですが、十才の判官(義経)も空前です。
能「安宅」の義経は子役と決まってますが歌舞伎は成人が普通です。
そもそも、弁慶は「延年の舞」踊りの場面を経てに続き、最後の幕外の花道での「飛び六法」に辿り着くまでの七十分に体力を殆ど消耗し、花道から鳥屋に飛び込む時には、倒れんばかりの役者を数人で受け止めます。
稀代の名優「二代目松緑」の最後の弁慶は六十二才でした。日常生活も杖が無ければならなかった身体でしたが、それが限界でした。
富十郎の弁慶は三島由紀夫が絶賛したという程ですが、今回は十三年振りという事です。膝・腰は痛めていて屈伸も侭ならない状態です。今回の「矢車会」は、中村富十郎自主公演ですから、一切の段取り演出も、すべて富十郎により一年前の夏から準備が始まっていました。
富十郎は、六十四才で結婚、七十才に、長男・大(鷹之資)が生まれました。富十郎が語るには「それまでは自分の良いようにやっていればいいと思っていましたが、後継者を得た事が気持ちを大きく変え、総てを伝える事は出来ないが「心」だけでも受け取って欲しいとの思いが募り、五才より、歌舞伎はもとより、能・鳴り物などの日本の伝統芸能の作法、技術の習得を師事させました。能は、観世流・片岡九郎衛門、鳴り物は望月長左久に習っています。
「こういう気持ちを目覚めさてくれたのは、家内さんのお蔭で感謝に堪えない」と言っておられます。
さて、長い準備と稽古を経ての「矢車会」の「勧進帳」の析が鳴り幕が上がりました。
居並ぶ長唄囃子連中の人数の多さに驚きます。唄・九人、三味線・九人、囃子が、笛一人、大鼓・二人、小鼓・五人。普段の倍です。歌舞伎座の広い横幅一杯に居並ぶ様子は圧巻です。
大鼓(つづみ)は一人が普通ですが今回は、二人で、一人が立鼓、小鼓は田中傳左衛門が立鼓です。笛は藤舎名生、いずれも富十郎と共に道を極めてきた名人です。今回は、能の片岡九朗右門(七十九才)が、弁慶の衣装、判官の所作についての助言があり舞台を盛り立てました。
「旅の衣は鈴懸の・・・・これやこの・・」で、判官が花道に現れました。まことに小さいが見事な足運びで七・三にかかり、振り仰ぎます。形の良い姿は人形のようです。続いて四天王の登場、染五郎・松緑・右近・段四郎と豪華な顔ぶれです。居並んだ所へ弁慶の登場。衣装は体力を考慮して重い歌舞伎衣装(黒地に金の梵字)ではなく、九朗衛門の着付けによる能「安宅」の茶縞の衣装です。軽く楽に動き易いとの配慮です。
「いかに弁慶・・・」の、判官の台詞、能仕込みの声の張り、少し早目の棒読みになりかかりましたが,すぐ良いテンポになりました。以後の「判官御手」の件りも全く間違いも無く見事な口調で申し分ありませんでした。
この後は、富樫との「勧進帳読み上げ」「山伏問答」「呼び止め」「押し合い」「判官打擲」となります。富十郎の台詞回しは定評のある所で、丁寧明瞭な声は観客にあまねく聞こえたとの賛辞です。
「判官打擲」「押し合い」の後、「御疑念晴らしに打ち殺し見せ申さん」との弁慶の必死の言葉に富樫もたまりかね「疑いは晴れた、とっとと誘(いざな)い立ち去られよ」天を仰ぎ感動の涙を振り払って(泣き上げ)立ち去ります。ここに至るまでの出演者の迫力たるや凄まじいもので、笛の藤舎名生の渾身の吹き込み、鼓の傳左衛門の「オーーッ・イヤーー」と裂帛の気合い、四天王の押し込みの迫力は息を呑む連続でした。
富樫が去り一行は安宅の関を後にし、暫し山中での休息を取ります。
ここで「判官御手」の場面に進みます。判官が上手に移り弁慶主従が下手に並びます。
「いかに弁慶、本日の機転・・」と、判官、四天王も称えます。弁慶「主君を打ち据えたことは天罰空恐ろしく」と泣き伏します。判官、前に進み出て手を差し延べます。「判官御手」の名場面です。この場面は舞台稽古の時、九朗衛門の指導がありました。歌舞伎では判官と弁慶が目を合わせるのが決まりでしたが、能では判官が直視ではなく下を見ることが心の奥深さを醸すというアドバイスでした。富十郎は初めて知る表現だと感じ入って、その所作になりました。
「御手」の後、主従共々「鎧にそいし袖枕」と戦に暮れた三年の苦難を語り合い涙します。弁慶は平家との合戦の様を「石投げの見栄」を含めて舞います。
「いざ、陸奥へ急がん」とする所へ富樫主従が駆け付け、非礼を詫びて「杯参らせん」と振る舞います。
「かわらけ」では物足らぬと、弁慶は「蔓桶」の蓋を指し大杯にして、ひょうたんの酒を飲み干します。
ここは正座の所ですが辛いので「合引」という椅子を使い、所作も、ひょうたんを転がす所と蓋を頭にかざす所が省略されました。「御手」から、この辺りまでが膝、腰に負担が掛かる所で、後見の錦之介が絶えず傍らで配慮していました。弁慶はすっかり上機嫌になり「御舞い一差し仕る」富樫「御舞い候え、拝見仕る」。
踊りの見せ場「延年の舞」「三段の舞」と進みます。この件りは「二代目松緑」が、まさに蝶のように舞った場面です。私は、これを超えている役者は現在まで居ないと思っています。神業だったと思います。
八十才、満身創痍の富十郎がどう踊るのか、固唾を呑んで見ました。上半身のこなしは申し分ありません。両足踏みは一度で、後は摺り足でした。呼吸・間合いは申し分なく総てを承知の上での配分ですから流れるような踊りよりも、持続した「間」の緊張感がありました。
「萬歳ましませ、萬歳ましませ、巌の上に・・」と舞い、扇で出立の合図を送ります。
判官が急ぎ足で花道に向かい四天王が後に続きます。花道に掛かったところで、判官が走りつつ笠に手をやり、チラと振り向き大拍手の中、走り去って行きました。
後に残った弁慶は、急ぎ笈を背負い金剛杖を脇にして花道へ向かい大きく両足を踏みます。
長唄囃子連中の「虎の尾を踏み毒蛇の口を 逃れたる心地して・・・」の、演奏の中、花道の七・三に掛かります。「陸奥の国へと下りけり」で、富樫が右手を上げ袖を巻き、番卒・太刀持ちと共に見送ります。「イヤーーッ」という裂帛の気合いで、笛・太鼓・鼓が見事にピタリと終わり、定式幕が引かれます。
ここからは幕外になり、いよいよ「飛び六法」です。果たして飛べるのだろうかと心配と期待が交叉します。暫し、一呼吸の後、舞台へ一礼、普く諸々に感謝の礼の後、「オーーッ」と一声、パンパンと「付け」が入り「大見得」の後「六法」の形に入ります。片足づつ高く上げ飛ぶ体制に入ります。形を崩さない配慮との判断でしょう。「摺り足」で花道を進みました。中程で形を整え流れるように姿を消しました。
「大向こう」から「まだやれるー」という声が掛かりました。富十郎にも聞こえたそうです。「天の声」だと思ったそうです。「これからも登れる山に登る。無理をして遭難してはいけないが登れる山を目指す」と話しておられます。
その後も現役で舞台出演中です。
七十五分は普通と同じです。省略の部分はありましたが丁寧さと「間(魔に通づるという)」の取り方で息も付かせませんでした。判官(鷹之資)は、至近から、笛の藤舎名生、弁慶(富十郎)は、傳左衛門が、後見(錦之介)が、六法幕切れまで見守っていました。
稽古の時には、松緑が鷹之資に終始付き添っていました。松緑は、幼時に父辰之助(後三代目松緑追贈)が早世、祖父、周囲の親類先輩に育てられ成長しました。舞踊宗家・藤間勘右衛門でもあり幼心が分るのでしょう。
歴史に残る「勧進帳」は終わりました。

夜は「寿競べ」「お祭り」そして父子競演の「連獅子」です。
ページを換え、終わりに「総括」も書こうと思います。 21.2.5

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