「超」個人的法学部遊泳法−僕が学生だった頃−

(1年次合宿研修講演〔1998年6月7日、於グリーンピア南阿蘇〕)

木 下 和 朗

おことわり(10 July 2000)
はじめに
 法学部の木下です。今日は、図らずも皆さんの前でお話しすることになりました。普段は、「憲法」とか何とか言って難しいことばかり話しています。皆さんのうちにも、「また難しい話かよ。」と思っている方もいらっしゃることでしょう。しかし、今日は難しい話はしないつもりです。今回の話は私の学生時代の体験です。幸か不幸か、難しい話をすることを生業とする私にも、学生時代がありました。お話しするネタはつきません。今振り返れば、私は、結構楽しい学生生活を過ごしてきたと思います。但し、ここでは、学生時代の人との出会いとについてお話したいと思います。というのは、皆さんに4月に回答していただいたアンケートに拠りますと、皆さんの最大の関心事の一つが、人間関係であるとの結果が出ているからです。確かに、有意義な学生生活を送ることができるかは、この間にどのような人間関係を作ることができるかに依るといっても過言ではないでしょう。この点について、私は大学時代、幸いなことに、多くの方々−−友人、先輩、先生−−と巡り合うことができ、それらの経験を通じて、いろいろと考えてきました。もちろん、これからお話しすることは私個人の経験です。皆さんがこれから形成していくであろう人間関係は千差万別でしょう。とはいえ、自分と他人とを比べるということは、自分の考えや立場を知る上で役立つことです。この点は私と同じだ、この点は私と違う、このことを認識することが自らを知る一番の近道でしょう。そこで今日は、これからの有意義な学生生活を過ごす一つの参考として、敢えて私の恥を含めて、ありのままにお話したいと思います。

 実は、ここで本当にお話したいことは遊びの話です。私は、「飲む、打つ、買う」という程の遊び人ではありませんが、遊ぶことが好きです。したがって、遊んでいる際の失敗談もたくさんあります。一番の不覚は、ゼミ合宿の際に、自ら挑発した酒の飲み比べに負けて、反対に挑発されたのに腹を立て飲み比べに挑んでいこうとすると、当時のゼミ教官でいらっしゃった中村睦男先生にたしなめられたことでしょう。しかし、この失敗も、同じくゼミ合宿の際、酒に酔ったあげくに先生とゼミ生とが将棋を指している最中の将棋盤をひっくり返した、私の先輩に比べるならば、救いようがあるかもしれません。その他、スキーに行った際に、宿泊先のペンションの部屋で夜中の3時頃まで騒いでいると、いわゆる「ヤンキー」の方々の逆鱗に触れ恐ろしい思いをしたこともあります。とりあえず、これらの話の顛末を含めて、このネタは夜の懇談会にとっておきたいと思います。

氈D北大に入学した理由(わけ)
 私が入学した大学は北海道大学(北大)です。クラーク(Clark)さんで有名です。"Be ambitious!" という名文句を言ったとされる人です。ついでに言えば、5000円札の新渡戸稲造は、北大の前身である札幌農学校の第2期生です。北大は、広大なキャンパスの中、ポプラ並木やクラーク像といった観光名所があり、夏休み期間中は学生よりも観光客の方が多く(昔は観光バスが構内に入っていたそうです)、学生がにわか観光ガイドになることもしばしばです。ちなみに、札幌を観光なされる際の豆知識を一つお教えしましょう。クラーク像というと、遠くを指し示すクラーク像が有名です。しかし、それは北大構内にありません。北大とは全く別の羊ヶ丘展望台という所にあります。観光客はよく間違えます。気をつけましょう。

 北大の宣伝をしていてもきりがありませんね。卒業してみると、私は、北大へ愛校心があるようです。ところが、北大に入学するのにはさしたる積極的理由はありませんでした。私の場合、ずいぶん早い時期−−中学生の頃−−から法学部志望ではありました。これには、私の性格が大きな理由を占めています。つまり、自分を拘束するものを嫌う性格で、その拘束の最たるものが法であると考え、法とは何かを知りたかったということです。この他、社会の仕組みを知りたいということもあったかもしれません。ですから高校時代は、法学部であれば、特にどこという志望はありませんでした。それでは、なぜ北大を受験したのでしょうか。その理由は、第一に、北大が地元の大学だったからです。私の進学した高校には、北大には当然進学するという雰囲気がありました。さらに、私は独り暮らしをするのが嫌でした。寂しいという理由からではありません。私は、中学校を卒業して直ぐに下宿をすることになり、その際の経験から、家事をするのに懲りていたからです。第二の理由はさらに自慢できません。というのは、私が高校に進学した当時、国立大学の法学部のうち、二次試験に数学を課していなかった大学は北大などごく少数の大学に限られていたのです。当時の北大は、共通一次(当時はそのように呼んでいました)と英語と小論文だけで受験できたのです。但し、これには後日談があります。怠け者の私は、このことを知りしめたと思い、高校入学後、数学をほとんど勉強しなくなりました。当然、数学の成績はクラスで下位を争いました。ところが、高校2年のある日、悲劇が起こりました。その日の新聞の朝刊には、北大の入試実施要項発表のニュースが載っていました。見出しには「文。系(法学部)二次試験科目に数学が追加」とありました。その日のことは今でも鮮明に覚えています。見出しを見た私はハンマーで頭を殴られた気分でした。それから、数学を必死で勉強し始めました。曲がりなりにも、なんとか受験に間に合いました。

.人との出会いを求めて −−北大に入学してから−−
 1987年4月、なんとか数学をはじめとする受験を切り抜け、北大文。系に入学しました。当時の北大は、入学後2年間、全員が文系・理系ごとにいくつかの系に分かれて(文系においては文沍n〔文学部中心〕・文系〔経済学部中心〕・文。系)教養部に所属し、その後それぞれの系において定める学生数が学部に移行・進学する(移行先の学部は学生が成績順に選択する)制度を採用していました。但し、文。系の場合、正確な数は忘れましたが、230名の定員のうち210名は法学部に移行・進学できるので、他の系、特に理系とは異なり、移行を心配することはありません。

 このように、極めて自由な雰囲気の下、大学生活が始まりました。ところが、入学して1週間も過ぎると、大学というところは不親切なところだということに気づきました。だいたい、単位履修の方法さえよく分かりません。「単位」という言葉の意味さえ知らないのにもかかわらず、「講義科目」は「必修」「選択必修」「選択」などとたくさんの種類があります。学生便覧には−−「便覧」という名に違い−−何とか科目につき何単位以上を取得せよ、としか記載されていません。しかし、単位履修の方法は、入学時ガイダンスの際に簡単に説明されただけです。このように全くの手探りで大学生活が始まりました。このような状況の下、地元の大学に入学し自宅生であるはずの私にも、すぐに疎外感が襲ってきました。入学式前後の行事ラッシュが過ぎ、自由時間をもて余し始めたことも疎外感に拍車をかけました。

 そこで、私は考えました。疎外感を克服する方法は何か。結論は、とりあえず自分のやりたいことをやろう、そして、そのために自らの人脈を広げよう、ということでした。さまざまな方々と知り合い、その交流を通じて、勉強にせよ遊びにせよ、可能な限り多く経験を積むことが楽しい学生生活を送ることにつながると思いました。私は、学業は程々に友人づくり、さらにサークルやバイト探しを始めました。

(i)横の人間関係
 ここからは、私が人的ネットワークをどのように広げていったかについてお話をいたしたいと思います。一般に、人との関係(人間関係)は、横の関係と縦の関係とに類型化できると思います。今振り返ると、大学生活は、これら二つの関係双方について、最も良質かつ強固な関係をつくる絶好の機会だというのが結論です。

 大学入学当初に交友範囲を広げようとする場合、最もその機会に恵まれるのは、横の友人関係でしょう。この関係における友人づくりは、私よりも皆さんの方が卓越しているかもしれません。ですから、ここでは、簡単な話にとどめておきます。私の場合、横の友人作りは高校時代の人脈が物を言いました。「友達の友達は皆友達」式に友人が増えていきました。もっとも、横の友人関係は多くの場合、交友範囲が一時期一気に拡大し後に徐々に収束していくようです。クラスや語学の講義も、友人をつくる意外なきっかけになることだけ指摘しておきます。既存の人脈と関係のない、全く環境の異なる友人と知りあう可能性があります。このような友人は一人だけできました。彼とは今でもつきあいがあります。彼は、名古屋出身で現在札幌で新聞記者をしています。彼とは、語学のテキストの共同購入を通じて知り合いました。その時、少し話をして、一緒に喫茶店に行って意気投合したというわけです。要は、友人づくりの機会はいろいろなところにあるのです。

(ii)縦の人間関係
 私の経験から思うに、学生生活において形成される人間関係のうち、実りある大学生活を送るために助言を得ることができ、また卒業後も末永い付き合いが続くのは、縦の−−先輩、先生との−−人間関係だと言えるかもしれません。利害関係を抜きにして縦の人間関係がつくることのできるのは、大学生活の特権でしょう。結局、勉強にせよ遊びにせよ、有意義な大学生活が送れるかは、この縦の人間関係がうまくできるかによって決するとも言えるのではないでしょうか。

 そこで以下、大学生活において縦と横との人間関係を形成する最大かつ絶好の機会であると思われるサークルとゼミについて、続いて、大学生活における典型的な縦の人間関係と思われる教官(先生方)との人間関係について、私の経験をお話しすることにいたしましょう。

。.サークル
 サークルは、大学生にとって横と縦との交流範囲を最も拡大できる空間と言えます。しかも、サークルは世代が近い同好の士が集う場ですから、コミュニケーションしやすいという利点もあります。また、そもそも、勉強に限らず、何か一つのことに打ち込むことは有意義であると思っています。私は、高校時代、放送局に所属し、放送番組づくりに明け暮れていましたので、今述べたサークル活動の利点は、当時から知っていたつもりです。

 そこで私は、入学後直ぐにサークル探しを始めました。そして検討の結果、二種類のサークルに所属しようと見当をつけました。第一に、法律学を自主的に勉強する法学系サークルに所属しようと思いました。というのは当時、私は司法試験受験志望だったので、そのようなサークルに所属すると勉強に関する有益な情報が得られると思ったからです。法学部には、多くの法学系サークルがありました。私はとにかくサークルめぐりを始めました。北法会と法律相談室とに見学に行くと、「1年生は法律知識が無いので見習いだ。」と室員に言われました。へそまがりの私は「なんだ偉そうに」と思い、すぐやめました。次に、七法会に行きました。七法会は、当時赤本に紹介されたこともあり、司法試験受験サークルとして最盛期を迎えていました。そこで、私も入会しようとしました。すると、友人達が、真偽はともかく、七法会出身者で司法試験に合格したのは1名しかいないという情報を持ってきました。私は、泣く泣く入会をあきらめました。模擬裁判実行委員会は(模擬裁判とは、一種の劇です)、当時は演技力がないと思われたので、初めからパスしました。とうとう「裁判問題研究会」とかいうサークルだけが残りました。実は、この団体の案内パンフには判例研究サークルだと書いてありました。しかし、「裁判問題」とはいかにも怪しげな名称です。学生運動の匂いも感じます。ところが、事態は好転しました。裁判問題研究会の会長は私の高校の先輩でした。しかも、ここで、友人のありがたさを感じました。先程話した名古屋出身の友人が、躊躇している私に、会長が私の高校の先輩ならば話は早い、一緒に話を聴きに行こうと言ってくれました。私は、友人に背中を押されて、会長の元に相談に行きました。すると、今までの疑問は氷解し、私は、裁判問題研究会(裁研)に入会することにしました。

 裁研に入会して、貴重な経験を得ることができました。議論を積み重ねて一つの結論に至るということは何かを体得できたのです。当時の裁研の会員は、2年生の他、3、4年生がほとんど在籍していませんでした。したがって、例会は、1、2年生のみで行われました。この陣容で、憲・民・刑法の基本判例を一つずつ検討していきました。所詮、1、2年生です。理解に限界があります。内容が理解できずに、体系書を前に唸ることもしばしばでした。しかし、自分たちの手で関連判例と学説をまとめ、自ら考えたことを表現し、他の会員の意見に耳を傾け、批判や反論に応答していく充実感は、何事にも代えられないものでした。このように議論することを通じて、1年生である私達と2年生の先輩とは堅い連帯感で結ばれることになりました。確かに、スポーツ競技を通じた連帯感をよく耳にします。但し、そのような連帯感は、一つの結論に向かって真摯に議論し合うことでも十分に得ることができるのです。そして、そのような連帯感で結ばれたタテヨコの関係にある友人達との付き合いは、息長く続くのです。

 そうそう、もう一つのサークルの話を忘れていました。実は、もう一つ入りたかったサークルはアイドル研究会です。中学生の頃から、アイドル−−とりわけ中森明菜−−の大ファンで、アイドルにはちょっとうるさかったのです。そこで、アイドルを極めてやろうと思い、アイドル研究会に入ろうと思い立ちました。しかし、この野望は結局、アイドル研究会の例会の日時と1年次基礎演習(熊大における基礎セミナーに相当)の日時とが重複するという事態に敢えなく潰えてしまいました。

「.ゼミ
 皆さん、ゼミは講義と同じだと思っていませんか。結論から言えば、それは間違いだと思います。確かに、ゼミにも、講義と同じく教育という側面があることは否定できません。但し、ゼミにおける教育は、自らの考えを相互に伝達し合い応答し合うことで成立します。要は、コミュニケーションです。この点が、一方通行の伝達に陥りがちな講義とゼミとの違いです。そこで、コミュニケーションであるゼミを人間関係の形成という側面から捉えてみると、ゼミは、大学が提供する、同輩、先輩、先生というタテヨコの人的ネットワーク形成の中心空間と言えるでしょう。短期的に見ても、ゼミは、有益な情報ネットワークです。一人一人がもっている情報量がたとえ限られるとしても、情報を持ち寄り交換し合うことで、情報量は格段に増大するからです。例えば、試験情報、就職情報がよい例です。しかし、それ以上に、ゼミで培われた人脈は一生の財産になり得ます。なぜなら、それは、利害関係を抜きにしてつくられるものだからです。しかも、ゼミにおいては、常に議論という形でコミュニケーションが図られまれます。議論は対話です。つまり、相手のことを考えるということです。したがって、ゼミで培われた人脈はより親密で強固なものとなるのです。このような人脈は、皆さんが熊大を卒業し社会に出られた後、さまざまな形で生きてきます。彼らが、自分の知らない社会への経路となってくれるのです。私の場合、大学時代、中村睦男ゼミ(憲法)と林立身ゼミ(商法)という二つのゼミに所属しました。これらのゼミを通じて、今述べた人脈をつくることができたと思います。

 さらに、これらゼミでの経験を通して、コミュニケーションのあり方について一つ重要なことを学びました。その経験は、3年生のとき中村ゼミに所属して間もない頃のことです。その日、その内容は全く忘れましたが、私の意見に対して大学院生の先輩が反論したところ、私は、その批判に対して「そのようなこともあるかな」と単純に考えて応答しませんでした。ずっと黙っていると、彼はこのように言いました。「僕は、君の発言を真面目に考えて、君に批判している。僕は君の反論を期待している。その君が黙っていてはだめだ。」この言葉は、今でも鮮明に記憶に残っています。彼は、コミュニケーションの相互性−−要は、コミュニケーションはキャッチボールのようなものであること−−を忠告してくれたのです。相手が真摯に意見を述べているときは、こちらもそのような態度で望む必要があり、そうでなければ、コミュニケーションは成立しないのです。彼のその言葉を聴いてから、人の話を以前に増して注意深く聴くようになりました。そして、可能な限り、他者の意見を自分自身の頭で考え、その上で、自分自身の言葉で応答することを心掛けるようになったのです。

」.教官
 憲法の講義においては、教官と学生とは大学の構成主体であるなどと講じられています。確かに、大学において、学生と教官とは切っても切れない関係にあると言えるでしょう。とはいえ、学生の皆さんの側から考えると、教官と親しくなることは不可能であると思われるのも、ある意味では真理を突いているのかもしれません。事実、学生が教官室に足を運ぶのは躊躇するものです。私も大学時代、講義やゼミ以外の用事で教官室に行ったことは、数える程しかありません。しかし、有意義な人的ネットワークを形成することを考えた場合、教官と親しくなることを初めから諦めるのは賛成できません。なぜなら、教官は、何はともあれ、社会経験を積んだ先達であり、一般の社会人には稀な専門知識を有している、学生の皆さんにとって、有意義な(変な意味ではなく)「社会の窓」だからです。実は、私の個人的経験に照らすと、教官とお近づきになるにはいくつかのきっかけや工夫が必要なようです。そこで、ここでは、それを3点にまとめてお話しいたしたいと思います。

 第一に、教官に対してある程度の親近感を感じる機会を得ることです。このような機会は、基礎講読やゼミの指導教官との付き合いで主に得ることができるでしょう。実は、ゼミコンパを開催することには、このような意義もあるのです。私の場合、大学卒業後に大学院に進学し憲法学を専攻するという進路選択をした源流をたどっていくと、そこに中村先生への親近感があったことは否定できない事実です。中村先生とは1年生の時、サークルのコンパで初めてお会いしました。その際、先生が「木下君、ウィスキーでもどうだい。」とおっしゃって、私のグラスにウィスキーを注いでくださったのです。それまでの私は、大学の先生とは偉い人で、皆にウィスキーなどを注いでもらい「うむ。いただこうか」とか言って威張っていると思っていたのです。この体験を通じて、教官のうちには気さくな人が意外に多いという事実に気づきました。このように、教官に親近感を感じるようになった私は、コンパなどの機会に、教官にいろいろと話ができるようになったのです。

 第二に、今述べたような教官の気さくな一面に触れることのできない場合、教官とお近づきになるには少しの工夫が必要です。つまり、教官個人とお近づきになる際に、教官のみならず、教官の周囲にいる人達(教官の指導を受けている大学院生、ゼミ生など)と仲良くなることです。というのは、教官個人と面と向かって話すのは初めのうち緊張します。しかも、話すネタだってそう多くありません。そこで、教官の周囲にいる人達に−−この場合先生の指導を受けている大学院生がベストです−−に先生についての話をうかがうのです。そうすれば、先生の意外な一面など、先生とお話しする際のヒントをいろいろ知ることができます。また、皆さん学生にとってはむしろ、教官の周囲にいる人達との交流の方が重要かもしれません。実は、良質な専門知識などは、そのような大学院生から教わることが多いのです。私の場合、中村先生との付き合いがまさにそれでした。先生御自身の他、先生の指導を受けている大学院生の方々と非常に親しくなれたのです。例えば、勉強面について、実はあまり言いたくないのですが、彼らに出会うまで、法哲学などの基礎法学を全く無視して実定法の解釈ばかりを勉強していまた。このような「法匪」みたいな私に、憲法を勉強するに際して、基礎法学を勉強することの重要性を教えてくれたのは彼らだったのです。

 第三に、先生と親しくなる最後の機会は、昼ごはんをともにすることです。特に、先生が学生食堂にいらっしゃるときにこの機会を逃す手はありません。4年生の時履修したゼミの指導教官である林先生と親しくなることができたのは、これが大きかったと思います。私は、林先生の講義の緻密さに惹かれ、また商法嫌いを克服しようと思い立ち、さらに友人の薦めもあり、林ゼミを履修しました。しかし当初、先生の厳格なゼミの運営に反発していました。但し、ゼミをボイコットするのは「敵前逃亡」(先生自身がそうおっしゃっていた)だと思い、1週間はほとんどの講義をさぼって報告を準備したものの、あっさり論破され悔しい思いをしたり、時には、ゼミ中に先生に向かって「面白くないから早く帰りたい」などと罵詈雑言の類を吐いたりしていました。ところが、ある時期から、林先生と毎日のように学生食堂で昼食を御一緒するになりました。そのきっかけというのは、ゼミ中に、先生が私に「食堂で一番声の大きいうるさい奴がいると思ったら、うちのゼミ生じゃないか。『捕まえてみればわが子なり』とはまさにこのことだ。」とおっしゃったことです。その時まで、先生が学生食堂で昼食をとられていることを知りませんでした。翌日、友人と一緒に学生食堂に行くと(ここでのポイントは、食堂が混雑している時間を避けるということです)、林先生がいらっしゃったので、声をかけてみました。すると先生に促され、席について先生と世間話をしました。これを期に、食事時に先生を見かけると一緒に食事をとるようになりました。そして、先生とお話しをするにつれて、自分が反発していたゼミ運営の厳格さの意味とか、先生の学問に対する厳しい姿勢などを知るようになりました。そして、先生を理解するに連れ、私は先生に反発しなくなり、たいへん尊敬するようになりました。結果として、林先生との昼食時の懇談は、熊本大学に赴任するまで6年間続くことになりました。

 教官になった今考えてみますと、先生方のうち8割は、学生とのコミュニケーションを望んでいるとの印象を私個人はもっています。あとは、ちょっとしたきっかけと工夫次第です。教官との付き合いは、言うなれば、今まで自分が全く相手にされたことのないわがままな美人/美男子と友達になることと、方法論の上では似たようなものでしょう。私の個人的経験が、皆さんの参考になることを願う次第です。

*     *     *

 そろそろ、与えられた時間がやってまいりました。大学における勉強法についても少しお話したかったのですが、それは別の機会に譲りましょう。結局、何事においても人と人との関係が重要だと思います。勉強法ついても、大学生活においてよい人的ネットワークを形成できるならば、よい勉強法は自然に身につくと思います。取り留めのない個人的な話をいたしましたが、これで終わります。皆さんのこれからの学生生活が実りあることを期待いたしております。御静聴ありがとうございました。

教育活動に戻る][表紙][自己紹介][研究活動][更新履歴など

Presented: 7 June 1998; revised: 10 July 2000; 誤字訂正: 24 July 2004
Copyright (c) 1998-2004 Kazuaki KINOSHITA. All Rights Reserved.