奈良県斑鳩〜大阪太子町
聖徳太子の死後、その亡骸を叡福寺(大阪府太子町)の御廟まで運んだとされる道が「太子葬送の道」である。また、この太子を偲んで、法隆寺から太子御廟所に参拝した多くの人びとが通った道でもある。太子道ともいう。
注 道筋は太子道磯長(しなが)ルートと呼ばれるもので太子道観光ウォークの道を参考にしました。
聖徳太子は自らここを廟地と定め、推古28年(620年)に墓所を造営したといわれている。翌年、太子の生母間人皇后が死去したのでこの墓に葬り、更に推古30年(622年)には太子と妃の膳手姫とが同時期に亡くなり、この同じ墓に葬られた。これにより廟は三骨一廟とよばれている。太子の没後、聖武天皇の勅願により、太子の墓を守り霊を鎮めるため神亀元年(724年)に建てられたのがこの叡福寺であるという。
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