太宰府都府楼跡で万葉歌碑を探す
  準備した地図のお蔭で天満宮境内の重要な文学碑は全て調べつくした。時計を見ると1時間が過ぎていた。駐車場に戻り都府楼跡に車を走らせた。
  都府楼跡、正面入口右手には大宰府で都を偲んだ大伴旅人歌碑「やすみししわご大君の食す国(お治めになる国) (大和)も此処(太宰府)も同じとぞ思ふ(6-956)が都府楼跡の芝生の緑を背景に如何にもこの地を守るが如く立派であった。旅人歌碑と対峙する形で座っていた高浜虚子句碑「天の川の下に天智天皇と臣虚子と」は何とも気宇壮大な句で、若かりし虚子の意気軒昂たる姿勢を示していた。長い年月を挟んた二基は共に都府楼を立派に守っていたのに驚きました。
  その先にある大宰府展示館は何故か閉館していたが、脇に置かれた小野老歌碑「あをによし寧楽の京師は咲く花の薫ふがごとく今さかりなり(3-328)は万葉集の中でも有名な一首で、広大な都府楼跡の園地を背景にこの望郷の歌を読むと一段と味わい深かった。
                  
                   (大伴旅人「やすみしし」歌碑:都府楼跡と記念碑遠景:小野老「あおによし」歌碑)
   展示館の隣が俳人・河野静雲が住職を務めていた「仏心寺」。寺とは名ばかりで、訪ねてみると民家同様の庵。しかし、流石九州ホトトギスの総本山だけあって、狭い庭は高浜虚子一家の句碑群、河野静雲句碑・墓碑・筆塚などで埋まっていた。「来訪者はお声をおかけ下さい」との張り紙があったが、先を急ぐので、写真を撮って引き上げた。
  近くの 観世音寺は大宰府を代表する寺院であるが、西の都・大宰府と命運を共にして、今は、広大な境内に本堂・鐘楼などを残すのみ。数多くあった塔頭も粗末な「天智院」だけになっている。奈良の荒れ寺の姿を脳裏に浮かべながら歩き回った。講堂右池畔で沙弥満誓万葉歌碑「しらぬひ筑紫の綿は身につけて いまだは著()ねど暖かに見ゆ(巻3-336)」他6基が座っていた。  特に、当寺を訪れて詠んだ長塚節歌碑「手をあてて鐘はたふとき冷たさに 爪叩き聴くそのかそけきを」は迫りくる死の予感を抱きながらの絶唱であることを知って、この廃寺で味わうと感慨が大きく胸を打つ。 
  帰りに、隣の戒壇院(奈良の戒壇院に匹敵する日本有数のもの)を覗いたが、愛する奈良の戒壇院の印象を壊したくないので、堂に入る勇気はなかった。参道の畑越しに戒壇院の赤茶けた築地塀を眺めた時、「奈良が見えるよ」とぶつぶつ呟いているのに気付いた。
   隣の観世音寺公民館の前には山上憶良万葉歌碑「瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ…(5-802」、反歌「 銀も金も玉も…(5-803)が遠来の客を待ち受けていて嬉しかった。

 
都府楼跡の西側をめぐる

都府楼跡の北西の隅に万葉歌碑・大弐紀卿「正月立ち春の来らばかくしこそ 梅を招きつつ楽しき終へめ(5-815)(旅人の「梅花の宴」での詠)が緑に埋もれていたので駆け寄った。
   その先の三叉路西脇が「梅花の宴」を開いた、大伴旅人の邸宅跡(現在は坂本神社)と伝わる。小さな石段を登ると、左手に旅人歌碑わが岡にさ男鹿来鳴く初萩の 花つまとひに来鳴くさ男鹿(8-1541)が居た。境内を歩き回り、万葉の面影を探したが徒労に終わった。曲水の宴を張る美しい庭園を幻視して万葉の時代に思いを馳せ、「菊花の宴」の序文碑を建てるのはここしかないと考えながら、引き揚げた。
                 
            (都府楼北西跡・大弐紀卿「正月」歌碑:坂本神社:同左・大伴旅人「わが岡」歌碑)

坂本神社から北へ少しだけ進み、四王寺山の登山口へ向かう途中の左手に鬼子母神堂(安産・子育ての神:坂本3-15番地)が現れた。立派な石垣ばかりが目立つ、荒れた境内の端に細長い山上憶良歌碑「しろがねもくがねも玉も何せむに 優れる宝子にしかめやも(5-803)が背伸びしていた。誰もが知る有名な歌だけに、立派な歌碑を想像して来たが予想は見事に外れた。
   坂本神社へ戻り、都府楼跡の北端の道を百mほど進む。左手の丘の裾に大伴旅人歌碑「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793:巻5冒頭一首)を発見。前書きに「凶問に報(こた)へる歌」とある。天武天皇の皇女・田形皇女の訃報を知らせてくれた使者に対して詠んだ挽歌である。旅人は筑紫に着任した翌年当地で妻の大伴郎女を亡くした。都から遠く離れた地で最愛の妻を失ったことは、旅人の心を深く、深く悲しませた。そして今また、都から届けられた天武天皇の皇女、田形皇女の訃報だった。「世の中は空しいものだと知っていたけれど、こんなに不幸が続いて重なってくるとますます思い知らされる」と歌い上げたこの一首は絶唱だと思う。
   歌碑から南を臨む。広大な都府楼跡が眼前に広がる。不意にその風景に大伴家持がその生涯を閉じた、陸奥の多賀城の都府楼跡が重なって来た。後世、松尾芭蕉が今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、 羇旅の労をわすれて、涙も落るばかり也と『奥の細道』に書き残した一節が甦り、少しばかり心が熱くなった。

最後に大宰府市役所・入口で、大伴旅人邸での「梅花の宴」での一首、山上憶良(筑前守・山上大夫)(「春さればまづ咲く宿の梅の花 独り見つつやはる日暮さむ(5-818)を訪ねて大宰府紀行を終えた。
 『筑紫道記』を残した飯尾宗祇の太宰府、芭蕉にとって憧れの地であった太宰府なども詳しく調べて書いてみたいとの宿題を抱えて大宰府を離れた。
(2007.06記:2019.04補記)
                
                 (鬼子母神・憶良歌碑:都府楼跡北端・旅人歌碑:市役所入口・憶良歌碑

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