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大宰府は万葉歌碑で埋まっていた
少し前(平成19(2007)年5月)のことになりますが、貴方様の足跡を探しで大宰府を歩きました。貴方様がご活躍になられた「遠の朝廷」の現況をご報告させていただきます 。
旅は炭鉱地帯(飯塚・直方)に森鴎外や林芙美子を訪ねることから旅を始め、久留米市で詩人・丸山豊、小郡市で詩人・野田宇太郎、水郷・柳川市で北原白秋を訪ねて、最後に太宰府に入った。
太宰府は、7世紀後半に百済、新羅などとの外交の拠点として出発し、8世紀に入ると九州全体を治める九州の政治の中心地として栄えた。今では、大宰府と言えば天神様・菅原道真の町であるが、その遥か昔は、万葉人で賑わっていた。
神亀5(728)年、大宰府長官(大宰帥)として赴任したのが、歌人としても名高い大伴旅人(令息は万葉集を編纂した大伴家持)であった。大伴旅人の異母妹・大伴坂上郎女、旅人と親交のあった山上憶良も加わって所謂「筑紫歌壇」が形成されていった。隆盛を極めた筑紫歌壇は何とこの小さな町に29基(2019年現在では更に18基増加・合計47基)もの万葉歌碑を残し、今では奈良・飛鳥、北陸・高岡に並ぶ万葉の聖地となっています。
先ずは太宰府天満宮へ
西鉄・太宰府駅に近い大駐車場にレンタカーを置き、御笠川を渡り、太宰府小学校脇の大町公園(連歌屋1−2)の山上憶良歌碑「妹が見し楝(おうち)の花は散りぬべし わが泣く涙いまだ干なくに(5-798)」を訪ねることから紀行を始めた。
大宰府駅前広場には巨大な灯篭が観光客を迎えている。高さ6mはあろうか。四面の竿石には菅原道真「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」・夏目漱石「反橋の小さく見ゆる芙蓉かな」・仙腰a尚「烟たつかまどの山の緋桜は 香飯の国の贈る春風」・大伴坂上郎女「今もかも大城の山にほととぎす 鳴きとよむらむわれはなけれども(8-1478」が各々大理石に刻まれて貼り付けられていた。誰一人として立ち止まる人が居なかったのは口惜しい。熊本在住だった夏目漱石、当地で修業した仙腰a尚よりも、この地で活躍した大伴旅人・山上憶良の歌を刻むべきではないかとの思いつつ天満宮へ向かう。
参道は観光客と名物「梅ヶ枝餅」で埋め尽くされていた。参道中程の「かのや」で蕎麦をすすり、梅ヶ枝餅をパクついて体勢を整えた。
天満宮案内所に駆け込み、所在の判らなかった中村汀女句碑のありかを教えてもらう。境内は22基もの文学碑が散らばる宝の山。今の宮司が文学愛好者なのか『神苑いしぶみ巡り』なる小冊子まで発行されていた。ありがたく購入して、持参資料集、手製の境内文学碑地図を抱えて、「いざ いざ」と朱の太鼓橋を渡り、境内に繰り出した。
(大町公園・山上憶良歌碑:太宰府駅前灯篭・菅原道真ほか歌碑:天神様参道)
天満宮境内を駆け巡る
参道の突き当り、宮司邸前右手で菅原道真歌碑「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」が手招きしていた。高さ4mの細身の歌碑は、遥かな京に向って大空に聳え立っていた。
延喜1(901)年、然に大宰府長官への左遷を言い渡された道真は、2月1日、京都の自邸を後にする。その時、日頃から愛でていた庭の梅に向かって、世に有名な「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花」と歌いかけた。「春なわすれそ」と問いかけられた梅は、その後道真を慕い、大宰府まで飛んで来たと伝わる。現在も道真の御墓所である太宰府天満宮本殿に最も近い所にいて、境内六千本のどの梅よりもいち早く開花して、道真公に春の到来を告げると聞く。
(道真「東風ふかば」歌碑:天満宮太鼓橋:天満宮楼門 )
楼門を潜ると、豪華な本殿、若葉の飛梅…、と観光客にもまれながら記念写真の順番を待ち、持参の満開の飛梅の写真を眺めた。参拝と記念撮影が終え、いしぶみ探して一目散に走り出す。
本殿手前の徳富蘇峰・漢詩碑「詠 菅公」、本殿左横の樟の大樹(当地名木)脇の萩原井泉水句碑「くすの木千年 さらに今年の若葉なり」を調べて北神苑・若葉の梅園を抜けて奥へ奥へと分け入る。
梅の季節が終り閑散としたお石茶屋で吉井勇歌碑「大宰府のお石の茶屋に餅食へば 旅の愁ひもいつか忘れむ」、富安風生句碑「紅梅に彳(た)ちて美し人の老」、さらに茶店奥で置き忘れられた中村汀女句碑「伴ひて清水も阿蘇に見すべきに」を探し当てた。
本殿に戻る。南横の中島神社近くにある芭蕉句碑「梅か香にのつと日の出る山路かな」は当地とは何の関係もないが、「梅」の一文字のゆかりで鎮座していた。
(天満宮本殿:若葉の飛梅と本殿:石茶屋・吉井歌碑:本殿横芭蕉句碑)
歩を進めると菖蒲池が現れた。まだ、池一面とは行かなかったが、見事な花々が涼風と一緒に旅の疲れを癒してくれる。この池の周りを囲んで文学碑が散らばる。中でも池の中に直立する高浜年尾句碑「紫は水に映らず花菖蒲」は白い花菖蒲を纏って圧巻であった。また、松尾芭蕉150回忌に立てられた「夢塚」は福岡の「枯野塚」と兄弟分の記念碑で一見の価値があった。その時から既に150歳を過ぎたと姿とは思われないしっかりとした姿で嬉しかった。
菖蒲池畔に、梅に囲まれて長細い筑前介(長官の次)・佐氏子首の万葉歌碑が天を指していた。碑面には「万代にとしはきふとも梅の花 絶ゆることなく咲きわたるるへし(5-830)」が書家・古賀狂輔の流麗な手で流れていた。その奥、大宰府遊園地入口(博物館入口横)には大伴旅人の万葉歌碑「わが苑に梅の花散る久方の 天より雪の流れくるかも(5-822)」が初夏の日差しを浴びて、しっかりと根を下ろしていた。この二基は、共に、大伴旅人邸で開かれた「梅花の宴」での32首の内の二首であった。歌碑の傍らの木陰で持参資料を素早く目を通した。
(菖蒲池中高浜年尾句碑:佐氏子首「萬代に」歌碑:大伴旅人「わが苑に」歌碑) ***************************
参考資料5:天平2年(730年)正月13日、大宰帥大伴旅人は、自邸に大宰府管内の役人32人を招き、梅花の宴を開催した。招かれた32人の歌、32首が万葉集巻5の歌番815からずらりと並ぶ。
序文(私訳)には「天平二年正月十三日、大宰府長官・大伴旅人の邸に集まって歌会を開く。折しも初春正月の令月(よい月)、気はよく風和ぐ(穏やかで)、梅は鏡の前で装う女性のお白粉のような花を開き、蘭は貴人の飾り袋の香のように匂っている。夜明けの峰に雲がかかって、松は雲の薄絹をまとって笠をさしかけたようで、鳥は霧のとばりに閉じこめられながら林に飛び交っている。庭には春に生まれたばかりの蝶が舞い、空では秋に来た雁が帰って行く。天を屋根に大地を座敷にして、膝を近づけ酒を酌み交わそう。心を通わせて、雲霞の彼方に向かって、胸襟を開こう。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを和歌に詠むことなくして、何によってこの思いを告げることが出来ようか。『詩経』に落梅の詩篇があるが、この思いを表すのに、漢詩と和歌に違いがあろう訳がない。皆様方、庭の梅の風景を、今の思いを、歌に託そうではないか。(この序文の作者は大伴旅人とも山上憶良とも伝わる)
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