いしぶみ紀行・令和
大伴旅人様
季節は春の真っ只中を走り抜けております。
今年の五月から始まる新しい元号に「令和」が選ばれました。
「令」も「和」も、貴方様が太宰府の地で開かれた「梅花の宴」の和歌32首の序文に記された言葉の中から選ばれたと報じられています。
誠に喜ばしく、心からお慶び申し上げます。
久しぶりにお便りを差し上げ、昨今の太宰府の状況をご報告致したく存じます。
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貴方様のご令息、大伴家持様が編纂された『万葉集』に家持様のの「磯城島の大和の国にあきらけき 名に負ふ伴の男こころつとめよ(20-4466)」が残されております。
これを拝見いたしますと、素晴らしいご先祖様の姿と、藤原一族に押されて、劣勢を余儀なくされている大伴一族の立場が鮮明に浮かび上がってきて、そんな難しい時代に、一族の先頭に立った貴方様に思いが至ります。
私共が「花の天平文化」と呼んでいる華やかな時代ではありましたが、社会・政治的には豪族が入れ替わり立ち代り権力闘争を繰り返し、何度も遷都が行われた、大変不安定な時期に貴方様は身を置かれて居られたのですね。
時代は、日本を支配してきた氏族制度の矛盾が限界に達し、豪族の時代から天皇が統べる時代へと変って行き、律令制の採用による官僚国家建設が進められた時代と歴史に記されています。権謀術策にたけた藤原鎌足とその子藤原不比等ら藤原一族が,大化改新(645)、大宝律令の発布(701),貨幣の鋳造(708),古事記・日本書紀の選定などを通じて、着々と、勢力を拡大し、大伴一族を追い落として行ったと教わりました。
貴方様が大納言・大伴安麻呂様のご長男として生まれ、神亀5(728年)に大宰府長官(大宰帥)としてご令室・大伴郎女を伴って大宰府に赴任したのは、60歳を過ぎてからで、二度目の九州下向でしたね。この任官については、当時権力を握っていた藤原一族による左遷人事との説、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事との説の両説があると聞きました。
大宰府での貴方様については、山上憶良様、異母妹の坂上郎女様らとの交流を通じて筑紫歌壇を形成し活躍をされたこと、赴任後間もなく妻を亡くされたことなど、微かな足跡しか残されておりません。
天平2(730)年に都の大官が次々と没したことから、貴方様は太政官において臣下最高位となり、同年11月に大納言に任ぜられて凱旋の帰京となりましたね。
しかしながら、栄光の日は短く、天平3(731)年1月に大納言・従二位に昇進してまもなく病を得て7月25日に薨去。享年67歳と伝えられています。
誉れ高い大伴家は弱冠13歳の家持様に引き継がれました。時代の荒波にもまれた家持様は「越中守」「兵部少輔・大輔」「因幡守」「薩摩守」「参議」「中納言」…と陸奥国において生涯を閉じられるまで、政権の中央から遠い時期が多かったとは言え、左遷と凱旋の綾なす、波乱万丈の生涯を送られたと歴史が伝えております。
貴方様が一翼を担われた天平文化の数々は、今も世界に誇る日本の文化として、大切に守られ、愛されています。ご令息が編纂に心血を注がれた『万葉集』は今なお多くの人々に愛されています。1500年近い風雪に耐え、今尚、光り輝いて居ることを謹んでご報告申し上げます。
新元号が国民の生活の中に深く根付き、「令和」の 時代が、平和と繁栄の時代となることを祈り、この元号が貴方様を偲ぶよすがとなることを心から望んでおります。
今一度、家持様の「うつりゆく時見るごとに心いたく
昔の人し思ほゆるかも(20-4483)」を掲げてご報告を終わらせていただきたく存じます。
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参考資料1:大伴旅人の歌碑は全国に47基、太宰府には12基建立されている。中でも「わが苑に梅の花散る久方の 天より雪の流れくるかも(5-822)」は人気のある一首で、全国に11基も歌碑があります。太宰府以外の代表的な歌碑を掲げておきます
(須賀川市翠ヶ丘公園万葉の径:山梨市万力公園万葉の森:名古屋市東山植物園万葉の小径)
参考資料2:新元号・「令和」の出典となった「梅花の宴」での32首の内7首(12基)が歌碑として現存します。後述の太宰府紀行で訪ねた大伴旅人、山上憶良、筑前介佐氏子首、大弐紀卿の四人以外では、大監伴氏百代「梅の花散らくは何処しか清(す)がにこの城(き)の山に雪は降りつつ(5-823)」、藥師張氏福子「梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや(5-829)」、筑前目田氏真上「春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る(5-839)」の三人で、何れも紀行後に太宰府に建立されたもので未訪問です。
因みに、序文の歌碑は平成27年に閉鎖された郡山・万葉植物園にあると聞き及んでおりましたが未見で幻の歌碑となりました。今次改元を機に、何れ、太宰府に建立されることを待ち望んいます。
参考資料3:大伴家持の歌碑は、全国に249基も建てられており、万葉歌人では群を抜いています。尚、大伴家持に関しては2008年6月に「いしぶみ紀行 第26号 大伴家持」で紹介させていただきました。
因みに万葉歌碑は全国に2265基(筆者DB)も建立されて、この歌集の人気のほどが伺えます。
参考資料4:梅は中国が原産地で、奈良時代の遣隋使または遣唐使が持ち帰った。万葉時代は白梅だけであったが、平安時代には紅梅も輸入された。万葉集には120首余の梅の歌があると聞いています。植物の中では「萩」に次いで多く、いかに梅が愛されていたか推測できます。梅が春の訪れを真っ先に知らせる花だということ、梅の花から漂い来る香が、万葉の人々の琴線に触れたようです。日本人は古代から香に敏感な民族です。因みに桜を歌った歌は40首余。
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