田中冬二詩碑探訪メモ −くずの花−


「詩碑アルバム」補足として、探訪した時のメモを書き残す。


1.    神奈川県・相模原市青柳寺紀行メモ(拙著『神奈川文学碑』要旨)

*  青柳寺は横浜線町田駅から近い。前住職・八幡城太郎が俳人としても活躍したこともあり、沢山の文学碑が建ち、墓地には大勢の文学者が眠る。庫裏の裏手の緑の海に田中冬二の詩碑が浮かぶ。・・・何度も読み返していると、「すぺいんささげ(スイートピーのようなマメ科の植物)」のピンク、空と海の青、測候所の白で飾られた絵が浮かび上がってくる。灰色の冬の季節が終り、色彩豊かな春がやってきたことをこの七行の詩句が告げている。
私はこの詩を読むと無性に旅に出たくなる。
墓地に向い、「田中冬二之墓」の前で、メモしてきた冬二の生涯に思いを馳せなかが長い時間を過ごした。
持参メモには「田中冬二(明治27年生−昭和55年歿)。安田銀行(現・みずほ銀行)の行員として活躍しつつ、専ら旅を題材とした詩を作り、山国や北国の自然、日常生活を初々しい感覚で表現した。処女詩集『青い夜道』」他15冊の詩集を遺す。昭和59年に『田中冬二全集』(全三巻)刊行。日本現代詩協会会長も歴任」
*  青柳寺を訪れるたびに、田中冬二と文学散歩の恩人・野田宇太郎墓には必ずお参りする。田中冬二を中央に一段と高く座らせ、その脇に野田宇太郎が寄り添う。「野田宇太郎之墓」と彫った黒御影石の墓石は美しい。右側に「昭和五十九年七月二十日 文學院散歩居士 俗名 野田宇太郎 七十四歳」、左側に「花一期一会詩」と刻む。法名は「文学散歩」という新しいジャンルを切り開いた野田宇太郎に似合っている。自選したと聞くこの墓碑銘もいい。二度とない人生、花にも、詩にも一期一会がある。そんな出会いを求めて、全国を歩き廻った言霊の伝道師が最後に立止まったがこの場所だと思うと何時までも立ち去り難い。「古きものは滅びる、それは自然の理であらう。新しきものは古びる、これも自然の理である。(中略)然し、それらの歴史は本當に滅び去り、古び去つたものだらうか、と私は反問する。否否! もし滅び去ったものだとしても、滅び去ったものを知らなければ、生々流轉の法理さへ、私には納得出来さうもない。(『新東京文学散歩』)」
全国各地にいしぶみを求めて歩く私の人生。お供は常に野田宇太郎のこの言葉だ。 

2.山梨県・河口湖紀行メモ(抜粋):2005年11月11日
*  横須賀のウサギさんの運転で富士五湖周辺のいしぶみ紀行と紅葉狩にでかける。山中湖湖畔の「山中湖文学の森」で富永風生、高浜虚子など山中湖ゆかりの人々の歌・句碑(全15基)を訪ねて河口湖へ。
湖畔東側に聳える天上山に登る。中腹の公園では太宰治文学碑が紅葉に包まれていた。『お伽草子』の中の一編『カチカチ山』はこの地が舞台。有名な昔噺を新解釈で書き直し、美少女と男の宿命物語としている。文学碑には小説の一節「惚れたが悪いか」刻されていた。…河口湖南岸の勝山遊歩道(富士ビューホテル北側湖畔)で碑を探す。快晴ではなかったが富士山の美しい散歩道。田中冬二詩碑は茂みが邪魔をして碑と富士山とのツーショットを見ることが出来ず、帰宅後合成写真を作った。ここには谷崎潤一郎「細雪」文学碑も座る。
   
    (河口湖田中冬二詩碑合成:同左・谷崎潤一郎文学碑:同左・太宰治文学碑)

3.千曲市万葉公園−いしぶみ紀行・戸倉上山田:2008.08

*  戸倉温泉の万葉公園にある田中冬二詩碑についてはいしぶみ紀行第27号「信州・戸倉上山田(2008.08)」で紹介Iした。以下に紀行からその部分を再録する。(写真一部入替)
*  「万葉公園」と名付けられた園地がある。小さな園地には、所狭しと、26基もの文学碑が立ち並ぶ。私は二度目目で勝手を知っていた。公園の一番奥の記念碑には「権少僧都成俊 萬葉集研究之地碑−古の姨捨は今の冠着山なり、仙覚萬葉集の成俊奥書に信州姨捨山(冠着山別称)の麓に於て、草を結びて庵となし、余生を養ふ・・・(以下略)」とこの地と万葉集のゆかりが記されていた。…万葉研究の故地に因んで、山上憶良(銀も金も玉も何せむに 優れる宝子にしかめやも−5:803)、志賀皇子(石走る垂水の上のさ蕨の 萌え出づる春になりにけるかも−8:1418)を始めとする7基の万葉歌碑が建てられた。・・・万葉集以外にも、宗良親王・小野小町・小林一茶・加舎白雄・賀茂真淵・佐久間象山とこの地にゆかりの深い人々や歌が並ぶ。更に、近代では高浜虚子・若山牧水・臼田亜浪の俳人・歌人に交って、田中冬二の詩碑「・・・さびしき魚の眼は/うつくしき夕空を/映せるなずなや(詩・千曲川の歌)」まで揃っていた。津村信夫も田中冬二も夕暮れの千曲川を詠っている。こんな強烈な日差しの中ではなく、軟らかい夕暮れの光の中で、今一度、二人の詩を味わって見たいとの思いに捕われ、私は詩碑から立ち去り難かった。
       (千曲川と田中詩合成:田中冬二詩碑:津村信夫詩碑
*  万葉公園から堤防を下流へ400mほど歩けば、詩人・津村信夫の詩碑「千曲川」「その橋は、まこと、ながかりきと、旅終りては、人にて告げむ、雨ながら我が見しものは、戸倉の燈か、上山田の温泉か、若き日よ、橋を渡りて、千曲川、汝が水は冷たからむと、忘れるべきは、すべて忘れはてにき」が広い河川敷を眺めている。また、山口洋子作詞、五木ひろし歌唱でヒットした歌謡曲「千曲川」「水の流れに花びらを/そっと浮かべて泣いたひと…の歌謡碑もあって、格好の散歩道である。

 長野県・鬼無里紀行メモ(抜粋):2013年8月2日
*  軽井沢高原文庫友の会へ出席の序に鬼無里を歩くことにした。始発の長野新幹線で戸隠高原再訪を狙う。停電で一時間も長野到着が遅延。戸隠行は中止して、長野駅9:40発の鬼無里行を拾った。(戸隠高原の文学碑についてはいしぶみ紀行第3号「信州の秋」−2003.11−で紹介)
バスはたった5人の客をのせ、裾花川に沿って高度を上げる。緑が車窓に滴り落ちる。川底まで200mの高度に肝を冷やす。高度恐怖症が頭をもたげ、景色どころか必死で手すりにしがみ付く。
10:42鬼無里の里の到着。川端康成の文学碑のある松巌寺の境内へ潜りこんだ。寺は鬼無里随一の大寺なるも荒れていた。文学碑は山門下の広場で、半壊の観音堂と向き合っていた。青御影石に康成の癖字が流れる。道元禅師の「春は花 夏ほとととぎす 秋は月 冬雪さえて (すず)しかりけり」が碑面を埋めていた。昭和43年ノーベル賞受賞記念講演『美しい日本の私』で紹介した名歌。碑陰を覗くと「歌碑建立の経緯」「川端康成の鬼無里」などと共に、昭和11年に当地に取材して書き上げた『牧歌』の一節「謡曲・紅葉狩りの鬼女・紅葉は一説によると艶麗な官女であって…」が刻まれていた。
昼前、「鬼無里観光タクシー」で根上(ねあがり)部落まで走ってもらった。謡曲「紅葉狩・鬼女紅葉」の里である。川端康成の死後、秀子夫人を乗せて二度ほど走ったという話を聞きながら、鬼無里の中心から6kmほど駆け抜ける。運転手は「ここから先に更に奥裾花渓谷を10kmほど進むと水芭蕉の群生地です。水芭蕉は全国一。お客さん、秋の裾花渓谷の紅葉も見事ですよ」と再訪を促した。
街道に沿った小さな広場の草叢の中に「内裏屋敷跡」(鬼女・紅葉の館跡)の案内板が出現。傍らに「田中冬二詩碑」の石柱も発見。街道から一段上の「鬼女・紅葉供養塔」を先に見学、更に「月夜の陵」(天武天皇時代、都造営のための検地使者としてこの地に赴いて客死した皇族のものと伝わる古墳)の標識に導かれて山を登った。運転手が「まむし除けです」と小枝を振って先導してくれなければ到底足を踏み出す勇気が湧かない「獣道」であった。5分ほど登ると杉林が現われ「月夜の陵」の標柱がぽつんと手招きしていた。こんな場所へ案内を乞う奇特な人は稀だと運転手は話す。ポツリポツリと炉辺話「鬼女・紅葉の話」「鬼無里の地名の由縁」も聞かせてくれた。それらは鬼無里を愛した、川端康成、田中冬二、津村信夫、太田水穂…らの感性を刺激し、数々の作品に結晶している話であった。
田中冬二詩碑と対峙した。誠に奇妙な造型の詩碑であった。積み上げられた岩は戸隠の険しい山々を想像させたが、その荒々しさに似合わず、碑面「信州戸隠や鬼無里は はやい年には/十一月に もう雪が来る…」には堀辰雄夫人・多恵子さんの優しい文字が並んでいた。田中冬二は昭和14年より三年間安田銀行長野副支店長として長野市南長野妻科に在住し、戸隠や鬼無里を愛して何度も訪れたと聞く。
  

          (川端康成文学碑:田中冬二詩碑:月夜の陵
*  別れ際、運転席から「態々お訪ねいただいたお礼です」とアルミホイルに包まれた「おやき」が二個差し出された。「家内の手作りです」とのことで鬼無里の人々の温かいもてなしに感動する。「今度は奥様と秋の絶景を是非に」との言葉に送られ訪碑を終えた。往路、肝を冷やした断崖絶壁も満たされた気分の中では少しも怖くなかった。

 5.長野県・小谷村訪問メモ(抜粋)2014.10.17日〜18
*  山奥の秘湯・小谷温泉を訪ねた。弱って来た足腰は出発を引き留めたが、そこに座る詩碑を見ておきたい誘惑には勝てなかった。
八王子から8:03発の特急・あずさ3号に飛び乗る。信州大町には11:00に着いた。ここは立山黒部アルペンルートの重要拠点で三度目の訪問。見残して居た文学碑を拾い、先を急ぐ。大糸線の車窓にはアルプスの名峰(唐沢岳、鹿島槍ヶ岳)と仁科三湖が浮かぶ。トンネルを抜けると白馬高原。更に山峡に進む。何時の間にか標高を600mに上げ、小谷温泉行のバスの出発点・南小谷駅に滑り込む。気温は17度と快適。
*  南小谷駅13:10発のバスは貸切状態。田中冬二が歩き始めた下里瀬部落を通り抜け、中土駅の先で、中谷川に沿う114号線に入る。日本有数の豪雪地帯(冬は小谷温泉の2km手前で通行止)、日本のチベット呼ばれる道。白岩、真木、…と小さな部落を通り過ぎる。最後の田中集落を過ぎると、道は一気に険しくなり、隧道と洞門が続き、バスは喘ぐ。遥か前方の高見に山田旅館らしき建物が姿を現す。巨大なループ橋をやり過ごすと、天が抜け、積乱雲をまとった山の下に、小谷温泉の一軒宿、山田旅館が居た。40分のバス旅だった。昭和三年田中冬二は12kmの雨中の道を夜通しで歩き通して草鞋を脱いだ秘湯は現代でも遠かった。
*  玄関に続く登り道に息を切らす。杉の根元に目指す簡素な詩碑が座る。玄関で案内を乞うも応答はない。年代物の看板を見上げて、勝手に詩碑の調査に取り掛かった。車中で眺めたノートには「江戸、明治、大正、昭和とそれぞれの時代に建築された建物が軒を連ねて歴史を感じる」とあった。旅館の裏手で、日本百名山・雨飾山(1963m)が見えないかと探すも不発。冬二が糸魚川に向かって歩き通した湯峠(1300m)への分岐点は小谷温泉から4km先なので諦めた。山峡を渡る涼風にすすきの穂が波打ち、晩秋の風情を感じる。念願の地に辿り着けた感興に浸る。はるばるやって来たのにたった30分の滞在は惜しい限りであったが、14:24のバスに乗り込む。5人の乗客をのせた村営バスは14:51に中土駅着いた。出迎えを頼んでおいたタクシーに乗り換える。
*  中土駅から石坂部落まで4km、標高を200mほど急登。幸田文「崩れ」文学碑が碑田山(1443m)山崩れを睨んでいた。碑面には「歳月茫茫 災害の話をききながら歩けば感無量だった。道のべに生い茂る夏草は鮮やかに青くまことに歳月茫茫の思いにうたれる。稗田山々、ちょうどこの真正面というので、見えないと承知しながらも目をこらせば、霧の粒が砂子になって浮動する。そんな中で鶯が近々と鳴いて、激しい川音をそらす」と刻まれていた。運転手は「明治44年以前はあの山は今の倍ほどの大きさだった。山体崩壊で半分は消えてしまいました」と遠くの山を指さした。この後白馬山麓に宿をとり、翌日は白馬岩岳、白馬高原で今年一番の紅葉を愛でた。
   

    (小谷温泉山田旅館:年代物看板:小谷村石坂・幸田文文学碑)
*  白馬八方尾根についてはいしぶみ紀行第21号「信州大糸線」で紹介した。この紀行では白馬高原で青春の化石を拾い、安曇野で筆者が日本一の文学碑だと絶賛する、尾崎喜八「田舎のモーツアルト」詩碑に出会った。


6.富山県・黒部紀行メモ(抜粋):2009.8.29〜8.30
*  黄色い穂波の富山空港に降り立った。有磯海(富山湾)を眺めながらJR北陸線で30分、黒部市に着く。北アルプス3000mの山塊に生まれた水が、黒部渓谷を駆け下り、日本海に注ぐ場所。黒部と言えば“黒部渓谷”“宇奈月温泉”が著名だが、“名水の里”も捨て難い。生地地区には、湧水が18ヶ所もあり、今も生活用水として利用中。
*  黒部市総合運動公園は駅から2km。緑の園地に噴き上げる巨大噴水の傍らに、平成8年に建てられた田中冬二の「故郷詩抄」詩碑が座っていた。噴水に戯れる子供とそれを見守る若い母親以外には人の気配はなかった。福島県に生まれた冬二だが、父の故郷であった当地を“わがふるさと”と呼んで愛したという。碑面を辿ったが、詩の前半「すももやあんず 梨/山桜の花の咲くのに/まだ綿入羽織をきてゐるふるさとは/なんといふかなしいことだらう/板屋根に石をのせた廂のふかい家々」の詩句はなかった。残念な省略だと思いながら車に戻った。
*  2km先の漁港の隣が「生地名水公園」。清水の流れる水路、水車や風車などあしらった小公園。咲き誇るチューリップが名水に浮かぶ。園地の奥に二基の石碑が蹲っている。「あれだ!」と駆け寄る。芝生の上で心地よさそうに日向ぼっこする石に田中冬二の代表作「くずの花」があった。冬二の優しい文字が白く浮かぶ。老夫婦の気分を味わうために、是非とも、黒部の渓谷に分け入って、湯に浸かって見たいものだ・・・と立山連峰に眼をやったが、生憎、分厚い雲に隠れていた。別の碑には黒部の名水を称えた随筆『潮風』の一節が刻んであった。
   

    (名水公園:田中冬二「くずの花」詩碑:名水公園:くずの花・借物写真)
*  生地部落の北部に生地温泉がある。温泉と言っても田中冬二の叔父が創業した「たなかや旅館」が一軒だけ。
1995年の旅で、この旅館の詩碑と菩提寺の浄永寺の詩碑を見ていたので、「お元気ですか」と顔だけ見ておくことにした。「黒部」と題する詩「雪が霙になり霙が雨になると黒部は春だ/その春は晩いが どつと来て一時に賑やかになる/山毛欅楢栗山さくらの芽吹きがささやきあい鶯目白/頬白山雀鴨などの小鳥の囀りがあかるい/とはいえ黒部は決してそのようにエレガントではない/黒部の自然はきびしい/山は冷厳に哲理を黙示し/水は透明なエスプリに叡智を示唆する/黒部はダイナミックである/そしてまたクールでもある/黒部は生きている/その自然は永遠に不易であらねばならぬ」を読むと、冬二の故郷は厳しい自然との闘い土地のようだ。しかし、その厳しさこそが名水を生み出すことを冬二はこの地から学んだに違いない・・・と思いを飛ばした。
旅はこの後、「深層水の入善町(芭蕉「奥の細道」碑、柏原兵三文学碑など)」「越中八尾に“風の盆”を見物しながら30基の“おわら歌謡碑”探訪」「高岡市内で文学碑と万葉歌碑」と慌ただしく駆け巡った。


7.城崎・浜坂の詩碑−いしぶみ紀行「山陰」:2008.11.08〜11.10
*  山陰地方の文学碑については第28号でのいしぶみ紀行「山陰」に前編・後篇で紹介した。以下に田中冬二詩碑関連部分を再録して置く。(写真一部入替)
*  城崎温泉詩碑:「つたや晴嵐亭」脇で田中冬二「城崎温泉」詩碑を探訪。青御影石の碑面に細かい冬二の文字が載っていた。「飛騨の高山では 雪の中で山鳥を拾った という言葉がある・・・」で始まる短い詩だが、銀行員時代の冬二が何度も訪れた城崎なのに、温泉街から離れた場所で旅館を訪れる人も稀だし、ましてこの詩碑を眺めてくれる人は少なかろうと、少し淋しい想いで車に戻った。…外湯「一の湯」脇の年代物の標柱に「海内随一」と記されていた。温泉が海内随一なら、文学愛好者にとっても文学碑日本一の場所で、駅前の雑踏以外はゆっくりと散歩を楽しみ、文学の息吹を嗅ぐことが出来る名湯であった。と云っても、青春時代の城崎を思い出す暇もなく碑めぐりに夢中で、折角の名湯を訪れたのにお湯にも入らない無粋な客で終わった。
*  浜坂町詩碑:岸田川が日本海に注ぐ小さな入江に「松葉蟹」の漁港・浜坂の町が沈んでいた。この静かな漁師の町がよびよせたのは三つの文学碑(田中冬二、新田次郎、坂村真民)。町の温泉場「ユトーピア浜坂」に車を停めた。前庭に田中冬二詩碑がちょこんと座る。城崎の詩碑よりこちらが数段素晴らしかった。どうだん躑躅をお供にした碑面には詩「冬・但馬浜坂」と題して、「新月が出てゐた/暗い町の辻に/日本海の怒涛がきこえた/針問屋は重い戸をおろしてゐた」が刻まれていた。後ろに廻ると「・・・この詩は、若い銀行員時代、山陰本線で通過や下車して親しんだ浜坂の情景を詠んだもので作者の自筆色紙より刻む。・・・冬二にとって浜坂は、母の地であり、詩のふるさと。この碑文は、詩的結晶度も高く、冬二の代表作の一篇・・・」と懇切な解説が記されていた。冬二の詩を愛する筆者には待ちに待った出逢いであった。
*  この後、「いしぶみ紀行・山陰」は鳥取砂丘、大伴家持の国府、『暗夜行路』の大山と大山高原、日南町に井上靖の足跡、松江・出雲と走り回った。・・・総走行距離600km、100基を越した訪碑、450枚の写真。「山陰土産」は予想を越える重量となった。JALから、超過料金を請求されるかと心配しながら、飛行機に乗った。
井上靖が「中国山脈の稜線・天体植民地」と称した僻地・日南町で持参した井上靖の言葉『年齢というものは、元来意味はない。若い生活をしている者は若い。老いた生活をしている者は老いている』に思いを馳せ、胸に迫りくるものを感じた。旅を終えて詩「時 静かに積り」の一編をものにした(拙著『神奈川の文学碑』掲載)。
   
   (城崎文芸館・志賀直哉:大山寺・志賀直哉:日南町・井上靖文詩碑と資料館)