帰宅後冬二の詩集を探った。苦労して見つけた全集未収録の詩集『晩春の日に』には、詩碑と同名の「山への思慕」と題する以下の詩が収録されていた。
「しずかな冬の日/私はひとり日向の縁側で/遠い山に向かっている//山は父のようにきびしく正しく/また母のようにやさしい/山をじっと見つめていると/何か泪ぐましいものが湧いて来る/そして心はなごみ澄んで来る/しずかな冬の日/私ひとり縁側で暖かい日を浴びて/遠い山に向かっている」
碑文とは異なるので首を傾げた。湖畔に建つ副碑には「田中冬二の生誕百年記念に遺族から贈られた自筆原稿を青石に刻み、早川町建立」と記されていた。自筆原稿だから碑文に間違いはなさそう。色紙に揮毫するための縮小版と勝手に決めつけた。新しい全集が編纂され、この詩が収録される時の専門家の考証を待つより他なさそうだ。
(干上がった奈良田湖遠望:湖畔の冬二詩碑:詩碑横の奈良田湖)
青いダム湖の水に手を振る。作っては壊し、壊してはまた作る。掘っては埋め、埋めてはまた掘り返す。人間の営みは凄まじい。もう人口の増加を止めた日本だから、いい加減にしてはどうか…と、別れを惜しんで手を振り続けた。
日本各地を旅し、近代化により失われていく日本の自然や風物を平易で温かい言葉によって表現した詩人の詩碑は全国に14基も散らばる。残すところあと一基(黒部渓谷・黒薙温泉)となったが、絶壁伝いの山道を20分も歩かなければ届かない、秘湯だけに、老いを重ねた今、その制覇は容易ではない。奈良田紀行を機に「田中冬二詩碑紀行」を作ることにしようと考えながら電車に揺られた。早朝6時に自宅を出発、20時に帰宅する強行軍の一日であった。宿願を果たした満足感がふつふつと湧きあがって来る一日でもあった。
奈良田の里の前に南部町の西行を訪う
奈良田の里の田中冬二詩碑を訪ねる前に南部町の西行歌碑を廻ろうと早朝に自宅を出発。東海道線で沼津、富士と乗り継ぎ、身延線で富士川を遡行。沿線の木槿や凌霄花を愛でながら、白い河原と田植えの終った若緑の絨毯を見送る。家を出てから3時間40分の長旅の末に、身延線・十島駅に辿り着いた。頼んで置いたタクシーに乗車。「国道52号線・身延街道」を2kmほど走る。「西行」バス停脇の、数十軒の小さな西行部落に迷い込んだ。
西行法師が第一回の東国行脚(1143年・26歳)で駿河の国より富士川に沿って甲斐の国に入り、峠の下の村に庵を結んだと伝わる部落である。語り継がれた西行伝説を大事に守って来た人々は、江戸期と明治期に小さな西行像を作り、大切に小屋の中に座らせ、今尚、守っていた。親切な運転手さんが何度も部落の人々に訪ね歩いてくれて、何とか、二体の西行像に巡り会えたのは幸運であった。
西行部落から400m北へ。切久保洞門の直前に西行公園入口の案内「この先1km」があった。最後は胸をつく細い急坂道を上り、西行峠・公園にたどり着いた。この道を歩く覚悟で来ただけに車で引き上げてくれたのは嬉しかった。
古道・甲駿往還の、西行峠(標高200m)は訪う人もなく、鎮まっていた。東に富士外輪山が南北に重なる。北側には身延の山々を背景に富士川がゆったりと流れていた。
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