(奈良田の百合に囲まれ田中冬二詩碑)
案内板には「奈良田温泉は天平宝字2年(758年)頃、第46代孝謙天皇が、病を癒すためにこの地を訪れ、8年もの間ここに住んだとの伝説の地である。その縁を伝えるのがこの奈良法王神社」とある。残念ながら田中冬二の詩に登場する「ご神木は昭和27年の台風で倒壊した」と案内されていた。人の気配のない境内で、持参した詩「山郷」を読み、急坂で上った息が鎮まるのを待った。
持参資料には「昭和38年に西山ダムが完成、奈良田の村はダムの底に沈み、奈良田湖が出現し、家々は石垣を積んで山の中腹に引き上げられた。左手には標高1467mの森山が背後に3026mの農鳥岳、右手には標高1800mの高山が背後に2052mの櫛形山を背負っている。アルプスのど真ん中」とある。書き写してきた田中冬二のエッセイ『奈良田のほととぎす』(昭和48年発表)から眼下の奈良田の様子を引用しよう。
「私が奈良田をはじめて訪れたのは昭和十一年であるから、以後三十四年の歳月が経っているわけだ。その間に奈良田はすつかり変わってしまつた。ダムが出来たり、台風で土砂崩れがあったりして、奈良田の山郷らしいカラーは殆ど失われてしまった(中略)障子をあけるとすぐ山が迫っている。岩魚を調理している台所を山がのぞいている。そんなにも山が近い。海抜千四百六十七メートルの山だ。その奥に更に三千メートル以上の山が三座もある。白峰の三山−北岳・間岳・農鳥岳だ。山は小さな村を抱きかかえ庇っているようでもあるし、村はまた山にしがみついているようでもある。」
描かれた自然は半世紀を経た今もさして変わらない。「宿にはぬるい内湯があったが、山の湯宿とか、湯治宿と言うよりはシンプルな山の宿屋であった。宿の入口近くに泉が滾々と、涌いていて、麦酒壜が七八本冷やしてあった。そしてその麦酒壜の間を金魚が泳いでいた」と描かれた宿も今尚元気だった。その宿には詩「山郷」の詩句が染め抜いた暖簾がかかっていると聞いてはいたが、少し足が疲れてきたので、石段を登るのは止めにした。確かな足取りで石段を登って行く独りの山男の後姿を羨まし気に見送った。バスは一日にたった4本しかない。遥々訪ねてきたが奈良田滞在は50分と短い。湖畔の詩碑に急いだ。
(玉垣の上に座る奈良田の家:部落の最上段に鎮座する奈良王神社:白根旅館)
バス停から南へ600m、先刻バスの車窓から確かめた湖畔の詩碑に走る。西山ダムの堰堤が近づくと、豊かな水が甦っていた。小さな駐車場の脇で「山は父のようにきびしく正しい/山はまた母のようにやさしい/山をじっと見ていると/心はいつしかなごみ澄んで来る/山の精神に生きよう」が湖を背に憩っていた。
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