(本合海・積雲寺:古口乗船場:大石田・乗船寺句碑:戸沢村・古口乗船場句碑)
村山市の立原道造と前田夕暮

  村山市は山形県中央部にある人口約3万人の小さな町。東西を山々(奥羽山脈と出羽丘陵)に囲まれ、中央を最上川が南北に貫いている。蝦夷探検家・最上徳内の郷里であり、昨今は様々な果樹栽培が市を支えている。立原道造の足跡が残る場所なので、一度は足を伸ばそうと機会を待っていた。
       
 
             (村山市役所・竹村俊郎詩碑:村山市からの月山:立原道造のスケッチ)
  村山市役所の前庭に立原道造の友人・竹村俊郎詩碑を訪う。緑に取り囲まれた詩碑「わが祖父等は如何なる人々にて 何処より来りしものにや…(詩「故里の歌)」を調べ、持参した資料に目を落とす。庁舎の近くには道造のスケッチした風景が今も残っていた。
 正面に
長い裾野を広げる月山(1984m)、右手に遠くに出羽富士・鳥海山(2236m)が刈り入れを待つ黄色の絨毯の上に乗っていた。
  「私の立原道造アルバム」はジグソーパズルに最後の一片を嵌め込んでようやく完成し、その喜びにしばらく浸る。盛岡市郊外の林の中に憩う立原道造の詩碑に刻されていた詩「アダジオ」(後述)が懐かしく甦り、村山市へ向かう列車の車窓映し出された真っ赤に熟れリンゴが盛岡の詩碑の近くの果樹園で過ごした心豊かな時間も運んできた。
  村山市役所の横に当地出身、江戸期の探検家・最上徳内の記念館が堂々と座っていた。本館の見学は遠慮して、庭園に楯岡小学校から移設された斎藤茂吉歌碑「最上川ながるるくににすぐれ人あまた居れどもこの君われは」と徳内銅像だけを拝見して、徳内が眠る本覚寺に急いだ。
 前田夕暮の詠んだ「甑岳」(最上徳内がその頂上で立志した)が何時も車窓に浮かんでいた。
  壮麗な山門を潜ると、正面に巨大な本堂が聳える。本堂前の庭は広く、右手に最上徳内の奥津城が特別扱いで、広い墓域を与えられて座っていた。
  墓域左手の黒御影石の歌碑(碑陰なし)に取り付いた。碑面には相馬御風「ますらをや命おもはず皇国の北の川辺の穢れはらひし」、前田夕暮「甑岳のいただきに立ちて遥かなる雨雲に寄せ大きこころは」、斎藤茂吉「最上川ながるるくににすぐれ人あまた居れどもこの君われは」と三人の徳内讃歌が併記されていた。徳内記念館の茂吉歌碑の案内に「この歌は大政翼賛会山県支部が昭和18年に最上徳内を讃える歌を斎藤茂吉に依頼したものである」との作歌経緯が記されていたが、その経緯は御風や夕暮にも当てはまるだろうと推察した。静かな境内に己の足音だけが響き渡った。
         
        (本覚寺最上徳内奥津城全景:同・徳内讃歌歌碑:夕暮碑歌に詠われた甑岳)
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