山形路の子規・村上市
  「はて知らずの記・楯岡の段」が短かったと同様に村上市での子規の足跡は日本屈指のバラ園で著名な東沢公園に隣接する東沢湖の端に座る文学碑一基だけであった。
  碑文には「はて知らずの記・楯岡の段(下記)が刻されていた。東沢バラ園から湖畔を1km近く辿った丘上に、転げ落ちそうにしがみついていた。辺りには鳥の声だけしがなかった。苦労して這い上がり、碑の背後を覗いた。「明治の文豪の足跡を本県における文化遺産として後世に伝えるため…楯岡宿泊85周年記念として建立する。昭和53年8月村山市」と経緯が記されていただけで、何故に訪う人もないこんな辺鄙な場所を建立地に選んだかの説明はなく残念であった。
         
       (東沢湖湖畔・子規文学碑:見事な東沢公園バラ園「横浜ローズ」:村山市のリンゴ)

「はて知らずの記」 (東沢湖畔の文学碑の碑文。句読点挿入など一部変更)
六日 東根を過ぎて羽州街道に出でし頃は、はや夕栄(ゆうばえ)山に収まりて星光燦然たり。「夕雲にちらりと涼し一つ星」。楯岡に一泊す。いかめしき旅店ながら鉄砲風呂の火の上に自在を懸けて大なる罐子(かんす・湯釜)をつるしたるさまなど鄙びておもしろし。

山形路の子規・最上川
  新庄市本合海の積雲寺に立ち寄ると、正岡子規の歌碑「草枕夢路かさねて最上川 ゆくへもしらず秋立ちにけり」が満開の萩の花の向うに潜んでいた。
  芭蕉は本合海が乗船地だったが、子規は大石田から最上川を下った。大石田の乗船寺で肖像線画が付きの句碑「ずんずんと夏を流すや最上川」を調べたが、折角の句碑の彫が浅かったのは残念であった
  昨今の乗船地・戸沢村古口では子規の句碑「朝霧や船頭うたう最上川」が客を見送っていた。最上川下りの様相は「古口より下十二里の間、山嶮にして水急なり。雲霧繚繞(りょうじょう−めぐる)にして、翠色模糊たるの間々より落る幾條の小瀑、隠現出没其数を知らず。小舟駛する事矢の如く、一瞬一景つぶさに其変態を極む(はて知らずの記)」の名文通りで、「白糸の滝」「仙人堂」も健在だった。しかしながら、綱を引いて川を遡る小舟の風景は消え、餅売りの少女も現れなかった。
  子規は芭蕉同様に清川まで乗船したが、現在の船下りは草薙温泉が終点であった。岸に這い上がり、子規句碑「朝霧や四十八滝下り船」や若山牧水歌碑「最上川岸の山群むきむきに雲篭るなかを濁り流るる」を探して駆け回った。
 (子規の碑は全国に285基あり、内127基を訪れたに過ぎず前途遼遠)

「はて知らずの記」(明治26年8月7・8・9日 楯岡・大石田・最上川)
七日晴れて熱し。殊に前日の疲れ全く直らねば歩行困難を感ず。…三里の道を半日にたどりてやうやう大石田に著きしは正午の頃なり。最上川に沿ふたる一村落にして昔より川船の出し場と見えたり。船便は朝なりといふにこゝに宿る。「ずんずんと夏を流すや最上川」「蚊の声にらんぷの暗きはたごかな」。川船にて最上川を下る。…大石田を発すれば両岸漸く走りて杉深き木立、家たてるつゝみなど蓬窓(ほうそう)次第に面目を改むるを見てか見ずにか乗合の話声かしまし。「秋立つや出羽商人のもやひ船「「草枕夢路かさねて最上川ゆくへもしらず秋立ちにけり」
八日。本合海を過ぎて八面山を廻る頃…少女餅を盛りたる皿いくつとなく持ち来りて客に薦む。…日暮れなんとして古口に著く。下流難所あれば、夜船危しとて、こゝに泊るなり。…「立ちこめて尾上もわかぬ暁の霧より落つる白糸の瀧」「朝霧や四十八瀧下り船」…一山川に臨んで緑樹鬱茂翠色滴らんと欲す。水に沿ふて鳥居あり。石階木の間に隠れて鳥の声幽かなり。これを仙人堂といふ。

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