公園入口からおぼつかない足取りで山路を頂上まで登った。大石田の人々が愛する歌碑「最上川の上空にして残れるは未だ美しき虹の断片」は小雨に濡れていた。頂上で茂吉が愛した最上川の絶景を眺めたが、生憎の天候で見晴らしは期待を裏切った。
  
         
               (歴史民俗資料館・聴禽書屋:乗船寺・茂吉奥津城:乗船寺・茂吉歌碑)

持参資料:斎藤茂吉は、明治15(1882)、現在の上山市金瓶の農家に生。同郷の医師・斎藤紀一に見込まれて14歳で上京し医学を学び、後にその養子となる。伊藤左千夫とともに、大正・昭和を通じて「アララギ「を代表する歌人として大きな足跡を残す。昭和21年1月、疎開先の上山市から大石田に移る。板垣氏の力添えで二藤部兵右衛門家の離れに居住。野鳥の声が聞こえることに因んで「聴禽書屋(ちょうきんしょおく)」と命名し、翌年の昭和22年11月まで居住。悠久たる自然と大石田の人々と触れ合う中、晩年の64歳から65歳にかけて詠んだ歌の数々(850首)は歌集「白き山」に収録された。東京に戻った茂吉は昭和26(69)文化勲章を受章。翌年には「斎藤茂吉全集全56巻」も発行され、茂吉はようやく晴れがましい日々を取り戻した。昭和28年2月25日、新宿大京町の自宅で70歳9カ月の生涯を閉じた(戒名:赤光院仁譽遊阿暁寂清居士)。精神科医としても活躍。

  これで全国に196基も散らばる茂吉歌碑の内、どうしても訪ねておきたかった大石田の碑群探訪を終え、訪碑総数は105基となった。
  茂吉の墓は活躍の場・東京、故郷・上山市とここ大石田の三ヶ所にある。東京・青山霊園の茂吉墓(1-イ-2-13)と直ぐ近くの旧居「童馬山房」跡(南青山4-17-43(現王子製紙社宅脇)に建つ茂吉の代表作「あかあかと一本の道通りたり霊剋(たまきわ)るわが命なりけり」歌碑を紹介したい。また、故郷・上山市金瓶宝泉寺にも茂吉の奥津城がある。写真だけ掲げて置きたい。尚、この宝泉寺には筆者の愛唱する名歌「のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳根の母は死にたまふなり」の歌碑が本堂前で待っている。
           
           
(東京青山霊園・茂吉墓:東京南青山旧居「あかあかと…歌碑」:上山市宝泉寺・茂吉墓)



山形路の子規

  正岡子規は、明治26年7月19日から約1ヶ月間、芭蕉の足跡を訪ねて東北地方を旅し「はて知らずの記」を発表した。「“松島の心に近き袷かな”と自ら口すさみたるこそ我ながらあやしうも思ひしか、つひにこの遊歴とはなりけらし」で始めた旅であった。「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」(東京上野公園天神社に句碑)と上野から汽車に乗り、白河関、松島などを歩いて山形に入った。今回、村山市、大石田、本合海、最上川の四ヶ所で「はて知らずの記」を片手にその足跡を探した。


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