山形路の芭蕉・天童市
尾花沢で山寺参詣を是非にと薦められた芭蕉と曾良は、予定を変更して、尾花沢からは天童の念仏堂を経て山寺街道に入っている。山寺は以前訪れているので、今回は天童の碑群だけを歩いた。
市の中心部から少し離れたドライブイン「将棋むら・天童タワー」に設えられた「奥の細道芭蕉庭園(山形の名勝を再現した日本庭園に句碑を設置)」で「まゆはきを俤にして紅粉の花」など15基を調べた。手入れも行き届かず、急斜面に配置された植込と石組の中の句碑を辿るのは、足元おぼつかなく、容易ではなかった。
市の中心の舞鶴山公園の文学の森で志賀直哉・田山花袋などの文学碑を調べ、その近くの愛宕神社裏参道で句碑「雲の峯いくつ崩れて月の山」、建勲神社で「はら中や物にもつかす鳴く雲雀」を訪ねた。山を下り、芭蕉も参詣した念仏堂の跡に建てられた句碑「行末は誰肌ふれむ紅の花」句碑「古池や蛙飛びこむ水の音」などに取り付く。
天童駅に戻りながら、羽後街道に沿って建てられた芭蕉句碑「閑さや巖にしみ入蝉の聲」や「奥の細道曾良日記(下記日記全文刻)」文学碑など5基を拾って歩いた。
「奥の細道:山寺の段」(元禄2年−旧暦5月27日、新暦7月13日)
山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松栢年旧り、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ 。「閑さや岩にしみ入蝉の声」
「奥の細道:曾良日記」(句読点など一部表記変更;天童市本町の文学碑の碑面)
廿七日 尾花沢ヲ立テ 、立石寺へ趣。清風より馬ニテ館岡迄 被レ送ル。…山寺(宿預リ坊。其日、山上・山下巡礼終ル)。未ノ下尅ニ着。是ヨリ山形ヘ三里。山形へ趣カンシテ止ム。…
廿八日 馬借テ天童ニ趣。…未ノ中尅、大石田一英(栄)宅ニ着。両日共ニ危シテ雨不降。上飯田より一里半。川水出合。其夜、労ニ依テ無俳。休ス。
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(芭蕉庭園句碑:念仏堂跡「行末は…」句碑:天童駅前・曾良文学碑)
山形路の芭蕉・大石田・新庄
山寺で「閑さや岩にしみ入蝉の声」の名句を吐き、羽州街道を北上した芭蕉と曽良は、大石田の高野一栄宅を訪問して歌仙を巻き「さみだれをあつめてすゝしもかミ川」を発句。
芭蕉は旧6月1日に大石田を出立し新庄城下へと旅立った。旅装を解いた新庄の豪商渋谷風流の家は、現在の新庄市役所からほど近い南本町の某金物店の敷地付近にあったと見られており、金物店の店先に「芭蕉遺跡風流亭跡」の石柱が建てられている。往時この辺りは城下随一の繁華街だったという。
(旧高野一栄宅・芭蕉連句碑:西光寺芭蕉「さみだれ…涼し」句碑:尾花沢芭蕉「蕎麦…」句碑)
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