山形紀行2015.09

旅の目的は三つあった。「芭蕉と子規の足跡を追って最上川周辺を歩く」、「村山市に立原道造の足跡を探り、前田夕暮の歌碑を訪ねる」「天童市の芭蕉の足跡を辿る」と欲張った計画で、山形紀行の総仕上げを目論んだ。以下に、今次紀行の行程順と異なるが「芭蕉の山形路」「子規の山形路」「立原道造と前田夕暮の村山市」の順に、先人の名文を添えてその探訪記を記す。

山形路の芭蕉・尾花沢
  岩手の平泉・中尊寺で “国破れて山河あり、城春にして草青みたり”と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。夏草や兵どもが夢の跡 “と名文を残し、芭蕉の奥の細道はその頂点に達した。
  宮城から尿前の関を越えて出羽の国に入り、奥の細道最大の難所山刀伐峠で難渋しながらも尾花沢についたのは元禄2年5月17日(新暦7月3日)であった。ここでは芭蕉を慕う豪商・鈴木清風の歓待を受け、何度も句会を開き、10日間もの長逗留となった。
  尾花沢の現人口は約2万人。古くは銀山や紅花で栄えた宿場町であったが、奥羽本線・新幹線から取り残され、蕎麦、尾花沢牛の産地というだけの寂しい都市となっていた。
  芭蕉が宿とした養泉寺も大火で焼け落ち、古井戸だけが残る荒れた寺であった。倒壊寸前の覆堂の中に摩耗の激しい句碑「凉しさを我か宿にしてねまる也」、芭蕉・清風記念館の芭蕉像(閉館後で見学出来ず)や諏訪神社の茂吉歌碑「封建の代の奴踊がをどり居る進み居る尾花沢 往還のうへ」を調べただけで辞去。大石田への途上、真っ白な蕎麦の花に飾られた芭蕉句碑「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」が強い印象を残した訪問であった。

「奥の細道:尾花沢」(元禄2年−1689−旧517日〜27日: 新:7 3日〜13日)

  尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。「涼しさを我宿にしてねまる也」「這出よかひやが下のひきの声」「まゆはきを俤にして紅粉の花」

          
     (尾花沢市:芭蕉・清風記念館記念像:尾花沢市養泉寺山門:同左鞘堂内左涼し塚句碑) 

持参資料1:鈴木清風は“紅花大尽”と呼ばれた豪商。商談で江戸に赴くことも多く、芭蕉とも親交のあった俳人でもあった。「涼しさをわが宿にしてねまるなり」は清風の手厚いもてなしへの感謝の句。「ねまる」は山形方言で、自分の家にいるような気のおけない寛ぎ方をいう。難所・山刀伐峠を越えて尾花沢に到着したほっとした気分が溢れる句である。
持参資料2:芭蕉が尾花沢滞在中7泊した養泉寺は、清風邸跡(芭蕉清風記念館隣)から700mほど離れた梺町にある天台宗の寺。芭蕉が訪れた元禄2年は、養泉寺伽藍が大修理された翌年にあたり、院内にはまだ芳しい木の香りが漂っていた由。高台に立地している養泉寺には最上川からの涼風が吹き込み、旅の疲れを癒すに絶好の休み処となったようだ。

                                −p.01−