長崎では「蝙蝠は幸運の印」だが、道造には「不幸」しかもたらさなかった。荒廃した洋館に失望し、悪化する体調に肉体の限界を悟り、新生への希望は崩れ去った。
  グラバー園は初めて訪れた学生時代から50年以上も隔たっていたが、その間の風雪にも負けずに観光客をもてなしていた。道造の絶唱とも云える「南國の空青けれど/涙あふれてやまず/道なかばにして道を失ひしとき/ふるさととほくあらはれぬ…」を思い浮かべた。詩は南国で出会った「青空」を「青けれど」と逆説的に表現せざるを得なかった道造の暗転する心の様相を見事に表現していた。
 道造の長崎滞在は長逗留する夢が破れてたった13日間で終わる。「このノート一冊のあとに何も書くことが出来ない。まだこの旅の意味もわからないのだから」と記して長崎ノートは閉じられ、空しく帰郷した。筆者の旅も収穫の少ないまま幕を閉じた。長崎土産に限定販売「五月の風のゼリー・軽井沢風」を持ち帰ることにした。
            
 (磨屋町通り、左手が諏訪小学校、武医院は右手の赤レンガ付近:眼鏡橋:オランダ坂青空)
  旅の補足として、平成22年、多くのファンに惜しまれながら閉館した東京文京区(東大工学部横)にあった、「立原道造記念館」に飾られていた年譜の主要部分を抜出し、その生涯を簡単に辿っておきたい。
  大正3年(1914)東京市日本橋区橘町に生。東京府立第三中学校(芥川龍之介・堀辰雄の後輩)、第一高等学校を経て、昭和9年に東京帝国大学工学部建築学科入学。この頃より軽井沢や信濃追分に親しむ。室生犀星や萩原朔太郎の知遇を得、師と仰ぐ堀辰雄の主宰する「四季」の同人となり、三好達治、丸山薫、津村信夫とともに編集に携わる(伊東静雄とも「四季」を通じて親交)。昭和12年東大を卒業、銀座の石本建築事務所に入社。東大建築学科在学中に数々の受賞歴を持つ建築家として将来を嘱望される。第1詩集『萱草に寄す』、第2詩集『暁と夕の詩』を出版し絶賛を浴びる。第3詩集『優しき歌』を構想するも実現せず(没後に中村真一郎が道造の意図を復元して出版)
  昭和13年、25歳の道造はゲーテのイタリア紀行に倣い、新生を果たすべくに日本列島縦断の旅に出る、
  9月から10月にかけて盛岡市に滞在(「盛岡ノート」と呼ばれる手記を書)。休む暇もなく、11月24日に長崎に向かって東京を発つ。奈良・京都・松江・門司・博多・柳川から長崎へ、憧れの地への長旅であった(「長崎ノート」と呼ばれる手記を残す)。
  しかし、新生を目指した旅は失敗に終り、東京に帰り着いた道造は、母校東大の病院で絶対安静を告げられ、練馬区江古田の「東京市立療養所」に入院。恋人の水戸部アサイの献身的な看病、室生犀星をはじめとする友人達の暖かい見舞いに守られ、見舞客に「五月の風をゼリーにして持って来てください」とねだった。2月には中原中也賞の第一回受賞者に選ばれるという朗報が届くが、結核菌の猛威は収まらず、昭和14年3月29日、26歳の若さで旅立った。
  三好達治は「人が 詩人として生涯をおわるためには 君のように聡明に 清純に 純潔に 生きなければならなかった そうして君のように また 早く死ななければ 」と哀悼詩を送った。
  東京谷中の多寶院には何度も出かけた。本堂手前で左折し突き当りが立原家の墓域。左手の墓に「温恭院柴雲道範清信士」の名前で眠っている。
  
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