難読駅名の現川(うつつがわ)から長崎トンネルに入る。長いトンネル抜けると長崎市街地が現れた。道造のノートに記された風景「とうとう僕の眼は、浦上の天主堂が丘の上に、ちひさな花のやうに赤く建ってゐるのを見た。…ああ僕は、つひに着いた!」を探そうと車窓にしがみ付いた。天主堂は原爆の直撃に晒され、敗戦、復興…と80年近い歳月ですっかり様相を変えて、車窓からは消えていた。
  終着駅・長崎駅に走りこんだ列車は長崎市の花・紫陽花の歓迎を受け、長崎湾に飛び込む寸前で停まった。

  午後は市電に乗って、列車からは発見できなかった浦上天主堂の探索に出かけた。
 「大橋」の停留所で下りて坂を登る。永井隆博士の旧居・如己堂と記念館を覗いて、浦上天主堂まで歩いた。
  丘の上には煉瓦造りの聖堂が青空に向かって聳え立つ。原爆で崩れ落ちた鐘楼や首の欠けた聖人の石像が、昭和56年の改装で真新しくなった煉瓦タイルとの対比で、一層、被爆の悲惨さを物語っていた。遠い昔、道造の見た「花のやうな」聖堂の姿を思い浮かべようとしたが、夏を思わせる日差しがそれを遮った。
  参道脇にはここを舞台にした、田中千禾夫の戯曲「マリアの首」文学碑が躑躅に囲まれて天主堂を見上げていた。天主堂前の小公園の塀に、サトウハチロー作詞、古関祐而作曲の歌謡曲「長崎の鐘」が「こよなく晴れた青空を…」の歌詞に五線譜を添えて並んでいた。
  大浦天主堂から長崎大学医学部の水原秋桜子句碑「医学ここに興りて高し棕櫚の花」に寄り、原爆公園(爆心地・10基を超える句碑・歌碑探訪)、岡上の平和公園(北村西望制作の平和祈念像探訪)と歩き回り、夕刻、長崎駅前の「ニュー長崎」で旅装を解いた。
           
                 (大浦天主堂:田中千禾夫文学碑:「長崎の鐘」記念碑)
  翌・29日、タクシーでホテルを出発。市の東側を固める山の頂上にある風頭公園の司馬遼太郎文学碑(後述)を訪ね、寺町の興福寺で斎藤茂吉歌碑「長崎の昼しづかなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花」、高浜虚子句碑「俳諧の月の奉行や今も尚」を調べ、古川町(旧・磨屋町)に車を進めた。
  道造が世話になった磨屋町41番地にあった武泌尿器科医院(親友の建築家・武基雄の実家。磨屋町は昭和41年の改正で「古川町と諏訪町」に変った)は跡形もなかった。「向いの小学校の庭からざわめきが聞こえてゐる」とのノート記述を頼りに、「しもむら産婦人科医院」の辺りが、武医院のあった場所だろうと勝手に決めた。電柱には「旧町名・磨屋町」の名札があった。諏訪小学校から漏れ聞こえて来る子供たちの声は、昔と変わりはなかった。
  小学校から150m程進むと観光客で賑わう眼鏡橋だった。紫陽花の花が溢れる橋畔の歌句碑を写真に収め、発熱で苦しむ道造が眺めた冬の眼鏡橋に思いを飛ばした。
  道造は長崎でそれまでの作品や師・堀辰雄の世界とも別れ、新生するために長期滞在をすべく下宿を探した。
  「大浦の白い天主堂が見えるあたりで電車を降りる。その辺りはもう古ぼけた洋館が沢山あった」の記述から、停留所は「大浦天主堂下」であり、「蝙蝠館」と称する下宿の洋館は「グラバー園」「大浦天主堂」の北側のあたりかと目を凝らした。その一帯にはホテル群に変り、「グラバー通り」には観光客が溢れ、立原道造の南山手の雰囲気はすっかり影をひそめていた。
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