いしぶみ紀行・伊東静雄−手にふるる野花−
  長い間、四季派の詩人・伊東静雄の代表作「太陽は美しく輝き/あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ /手をかたくくみあはせ/ しづかに私たちは歩いて行つた…(わがひとに与ふる哀歌)」や「わが死せむ美しき日のために/連嶺の夢想よ!汝が白雪を/消さずあれ…(曠野の歌)」に魅せられてきた。
  
萩原朔太郎が絶賛したストイックな抒情、硬質で鋭利な詩句が青春期の筆者に強い印象を残し、老いてからも「曠野の歌」の背景として重低音を響かせるセガンティーニの三部作『生成(生 )』『存在(自然)』『消滅(死)』を見るために、態々、スイスのサン・モリッツのセガンティーニ美術館まで出かけた。
  その伊東静雄の足跡を探るために早朝の羽田を離れ、長崎空港に降りたのは平成27年5月28日午前9時であった。リムジンに乗り、大村湾に沿って一時間ほど走るとJR諌早駅に着いた。諫早市は大村湾と有明海に幅20km程で挟まれ、市の中心を縦横に走る本明川の川畔に広がる、鶴の首のような町であった。
  駅で拾った車は船越町の狭い路地に入り込んだ。躑躅が咲き誇る広福寺本堂の裏手に広がる墓地の一角、伊東静雄は「文林院静光詩仙居士」と名前を変えて眠っていた。墓碑には夫人「華岳院静室妙貞大姉」戒名が並び刻され、前掲の詩句のように、夏を思わせる強い日差しを浴びていた。俳句に近い静雄の詠嘆「八月の石にすがりて/さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる。/わが運命を知りしのち、/たれかよくこの烈しき夏の陽光のなかに生きむ…詩「八月の石にすがりて」を墓前に供え、静かに手を合わせた。
  持参資料で静雄の略歴を拾う。

  「明治39(1906)年12月10日、長崎県諫早市船越(現・厚生町)に生。京都帝国大学文学部を卒業。故郷に戻ることなく大阪市、堺市で教職者として活躍。小説家の庄野潤三、ノーベル化学賞受賞者の下村脩を育てた。一方、詩人として詩集『わがひとに與ふる哀歌』をはじめとする4冊の詩集を残し、4年にわたる肺結核との闘いの後、昭和28312日、享年47歳の短い生涯を堺市で閉じた」
  昭和62年、生家からも奥津城からも近い、諫早市鷲崎交差点に小さな詩碑が建てられた。植込の中できらりと光る碑面には詩「咏唱」「この蒼空のための日は/静かな平野へ私を迎へる/寛やかな日は/またと来ないだらう/そして蒼空は/明日も明けるだらう」が刻まれていた。傍らに掲示板を設え、静雄の生涯などを紹介していた。交通量の多い県道55号線と県道57号の交差点で植込に守られ、車からは見えない。置き忘れられた詩碑で、静雄ファンでなければ訪ねることもなかろう…と一礼して詩碑を離れた。
  諫早城址の古びた石段を「確かこのあたり」と呟きながら登った。頂上のすぐ手前右側でようやく、大株の躑躅に囲まれた詩碑(昭和29年建立)に辿り着いた。初めて訪れてから50年の歳月が過ぎていた。確か、あの時は毎年に催される「菜の花忌」の直後だったのだろう、鮮やかな黄色の花で飾られていた風景を記憶の奥底に探す。詩碑には、詩「そんなに凝視(みつ)めるな」から、詩人・三好達治の揮毫で「手にふるる野花はそれをつみ、花とみづからをささへつつ、歩みをはこべ」の一節が刻まれていた。「周囲のかけがえのない友人たちを失った彼は、人生の相を悲哀として受け取り、自然の多様と変化の内に人の世の歓びと、人生を生き抜く意志を求めた時期の作品(『日本の詩歌』第23巻)とメモしてきた一編であった。長い歳月を経ても詩碑の美貌はいささかも衰えていなかった。
  諫早公園に池に移設された重要文化財の眼鏡橋の頂上から咲き始めた菖蒲の風情を楽しんだ。池畔の湿地には「只今、蛍の群舞中」との看板が掲げられていた。駅までの道中、うろ覚えの静雄の「蛍」の一節「立木の闇に ふはふはと ふたつ三つ出た 蛍かな」が本明川の流れに浮かんでは消えた。
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