旅程の最後に、亀谷から3kmほど離れた歌枕の地「黒塚」に走ってもらった。
芭蕉が『奥の細道』の旅で立ち寄り、正岡子規がその足跡をたどった陸奥の名所である。案内書には「阿武隈川の右岸にある鬼婆伝説の地。人を喰らっていたという鬼婆を埋めたという場所には古歌が刻まれた石碑が立つ」とある。
 先ずは正岡子規句碑「涼しさや聞けば昔は鬼の塚」のある観世寺の門を潜る。鬼婆の棲家と伝わる巨石群に小さな句碑が寄り添う。碑面は子規の自筆だが草書体で判読に苦労した。
 観世寺の裏手のふるさと村公園にある源重之歌碑「思ひやるよその村雲しぐれつつ
安達が原に紅葉しぬらん」を調べ、100mほど離れた阿武隈川の河川敷の一角に残る「黒塚」を訪う。
 そこには古びた平兼盛歌碑「みちのくの安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりといふはまことか」と年輪を重ねた杉の巨木以外に何もなかった。
 『奥の細道』には「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し、福島に宿る」と歌枕の地にしては、たった8文字の記述で、素っ気ない。きっと、郡山(安積)で古くから愛の代名詞として詠われ、用いられる「花かつみ(花菖蒲説、郡山市の花になっている姫シャガ説など諸説あり)」を「かつみかつみ」と日が暮れかかるまで、我を忘れて尋ね回ったので草臥れたからだろうと推察する。
 わざわざ立ち寄ったが、特段の感想もなく、紀行メモには何も残らなかった。


 会津若松以外は春の花々に彩られた道中であった。
 車を多用した結果、訪碑総数71基(内再訪13基)と収穫の多い紀行であった。


(観世寺・子規句碑:ふるさと村・源重之歌碑:黒塚・平兼盛歌碑)

(花見山から残雪の吾妻山系を臨む)
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