二本松市再訪

   二本松駅は高村光太郎と智恵子の足跡を探った紀行の時(19年前)と何も変っていなかった。駅の白壁に嵌め込まれた、色紙大の光太郎詩碑「阿多多羅山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」に「お変わりなく何よりです」と挨拶をして車を拾った。
 前回は霞ヶ城の名物・菊人形展を楽しみながら、歩いて城跡の坂を登ったが、今回は頂上の見晴台まで車で引っ張り上げてもらった。
 見晴台からは山桜のぼんぼりを灯した山村を前景に安達太良山が輝いていた。
霞ヶ城跡の急坂を少しよじ登った。詩碑に仕立てた牛石を掘り出した窪地に高村光太郎詩碑が蹲っていた。前回は紅葉だったが、今日は光太郎の好んだ連翹が詩碑を飾っていた。見てきた風景に、碑の詩句「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」を重ね、掌で詩碑の温もりを感じ取った。
        
安達太良山と阿武隈川:二本松霞ヶ城・高村光太郎詩碑:霞ヶ城展望台・安達太良山)
 
 霞ヶ城から延びる観音丘陵遊歩道に中山義秀文学碑、亀谷坂に幸田露伴句碑が増えていたので立ち寄ることにした。城址を埋め尽くす桜を愛で、見晴台から観音丘陵の遊歩道に踏み込んだ。
 山桜に飾られた道の脇には水仙が咲き誇り、700mほど歩いた園地で東野辺薫文学碑「槽目のネリを絞っていると母屋の方で何かいう…小説「和紙」一節」が霞ヶ城の桜の上に乗っかっていた。城壁の上に「あれが阿多多羅山…」と指差し眺める、豆粒のような高村光太郎夫妻が佇んでいるのが見えたようだったが…。
 中山義秀文学碑は入口から1000mほどのサイクリング道横に座っていた。「芸術は気品なり 人生も亦しかり」と昨日郡山で見た碑と同文が刻まれていた。こちらは巨岩で堂々としていた。
       
       (観音丘陵・東野辺文学碑:同左・中山義秀文学碑:亀谷・幸田露伴句碑)
 本町で遊歩道から離れ、丘陵を降りた。弱って来た足が悲鳴をあげるので車を呼んだ。東側の亀谷の坂を登ってもらい、頂上近くの観音堂で芭蕉句碑「人も見ぬ春や鏡のうらの梅を調べ、坂の途中で「文豪幸田露伴ペンネームゆかりの地」と題した露伴の句碑「里遠しいざ露と寝ん草まくらを見つけた。碑陰には「幸田露伴20歳の時、文学を志して北海道から東京へ向かう苦しい旅の途中(明治20年9月26日)に二本松で野宿し、詠んだ句。文壇にデビューした際、二本松で露を伴にしたことが忘れられず、ペンネームを“露伴”とした」とあった。忘れられそうな出来事を句碑に仕立てて残して下さった二本松の人々に感謝!感謝!であった。


                          −p.05−