鶴ヶ城址の桜の蕾は固かった。低い雲に押しつぶされそうな広い城址に散らばる碑を探し回る。三の丸・練兵場を舞台にした『二等兵物語』で評判を得た、梁取三義文学碑「二等兵の哀歓ここに」は文化会館入口にひっそりと、司馬遼太郎文学碑「王城の護衛者」は三の丸広場(博物館前庭)に堂々と、城跡をモデルの一つにした土井晩翠「荒城の月」詩碑は本丸跡の片隅で天守閣を見上げていた。
当地は評判を取ったNHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台だけに、新島八重が落城の時に詠んだ「明日の夜は何国の誰かながむらん なれにし御城に残す月影」を刻んだ木碑や記念像などが設えてあった。肝心の「八重の桜」は何処かに隠れていた。
(司馬遼太郎文学碑:新島八重記念像:土井晩翠「荒城の月」詩碑)
郡山は春色
冬色の会津若松から、たった一時間走っただけなのに、二度目の郡山には春色が溢れていた。駅の東口で当地出身の丘灯至夫を一躍有名にした歌謡曲「高校三年生−赤い夕陽が校舎を染めて…」の端正な碑を写真に収め、「こおりやま文学館」に急いだ。
和風の建物が芝生の上に座り、満開の桜に頬を染めていた。当地に縁の深い文学者たち(久米正雄・宮本百合子・中山義秀…)の展示をざっと眺め、郡山市の文学碑に関する資料を探してもらった。2010年に開催された「田中冬二展」記念冊子がさりげなく置かれていた。大判の色彩溢れる見事な出来栄えに見ほれ、ページを繰っていると、「どうぞお持ちください」と 差し出されたのには恐縮した。
田中冬二は昭和19年7月から昭和21年5月までの短 い日々であったが、安田銀行・郡山支店に勤務した。その間、郡山文化協会の副会長として活躍している。冬二詩碑を巡って全国を歩いているのでまたとない贈り物であった。
庭に回る。馬酔木の匂いが立ち込める芝生の上には中山義秀文学碑「芸術は気品なり 人生も亦しかり」、久米正雄句碑「魚城移るにや寒月の波さざら」が憩っていた。二人共に有名な悪筆家だけに添えられた案内板が嬉しかった。桜を背負った久米正雄の胸像(この胸像は何度も訪れている鎌倉・長谷寺の像と瓜二つ)と鎌倉・二階堂から移設された久米正雄旧居が大切に保存されていた。広い庭園だから田中冬二と田中冬二と親しかった尾崎喜八の詩碑も置いて欲しいものだと、あれこれと候補地を物色した。
郡山・安積地区開拓を舞台にした宮本百合子の『貧しき人々の群』を刻んだ文学碑が隣の開成山公園にある。8年前に訪ねた記憶を頼りに咲き誇る桜の中に分け入った。
(中山義秀文学碑:久米正雄句碑:久米正雄胸像)
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