福島紀行−2015.04−
西行の「吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき−続後拾遺−」で始まった今年の春は、花を訪ね、花に狂う日々になりました。
「吉野山こぞ(去年)のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ−新古今集−」と何度も訪ねた各地の花を懲りもせずに歩き回った。
仕上げに東北まで花を追いかけたので、今年の春の記憶として残して置きたい。
4月11日(土)
会津若松は未だ冬
小さな旅は小雨がお供となった。東京から郡山までの沿線は何処も桜が満開で、車窓を彩った。郡山から磐越西線で会津若松の入口、中山峠を越えると景色は冬に戻った。磐梯山・猪苗代湖は残雪と霧の中に隠れていた。福島原発から100km近く離れた、この地にも、残雪を被って、放射能汚染土を詰めたフレコンが並べられていた。気分が一層暗くなった。二度目の会津盆地の空は雲が密度を濃くし、幕末以降、苦難の道を歩んだ会津らしく、寒々としていた。
車を拾って町の外れの飯盛山に向かった。急斜面をエスカレーターで駆け上る。立ち並ぶ白虎隊少年20名の墓から線香の煙が流れてきた。いしぶみを拾いながら歩く。歌謡曲「白虎隊」で有名な島田聲也の詩碑「戦雲くらく陽は落ちて 孤城に月の影悲し」などを写真に収め、死してなお整然と並ぶ20基の墓碑に手を合わす。
墓の横手に藩主・松平容保の歌碑「幾人の涙は石にそそぐとも その名はよよに朽ちじとぞ思ふ」が墓碑を眺めていた。明治17年の墓前祭に際しての詠と聞く。会津軍の総大将であり、真っ先に命を差し出して、少年達(16‐17歳)を守るべきだった容保(明治26年59歳歿)の生涯を思い出し、少年達の奥津城にこの歌碑を置くのは相応しくないと思った。合計12基のいしぶみを土産に山を下りた。
飯盛山から東山温泉に走る。会津の奥座敷、山峡の温泉場は静まり返り、雪解け水が溢れる湯川の激流の音だけが周囲を支配していた。
与謝野晶子の歌に登場する「第一橋」の手前に、当地を愛した竹久夢二詩碑「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ 今宵は月も出ぬさうな」が居た。
石橋を渡ると新滝旅館の玄関番のような与謝野晶子歌碑「湯の川の第一橋をわがこゆる 秋の夕ひのひがし山かな」が出迎えてくれた。
旅館のパンフレットには「大正浪漫を意識した館内では、一味違ったくつろぎを味わうことができます。渓流の絶え間ない音を聞きながら、 歴史に浸るひとときをお過ごし下さい。夢二ギャラリーもお越しをお待ち申し上げます」とあった。
怪しい空模様がせかせるので夢二ギャラリーは遠慮し、鶴ヶ城に急いだ。
(白虎隊奥津城:与謝野晶子歌碑:竹久夢二詩碑)
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