「昭和23年9月、東京・中目黒の作家・武田泰淳が住職を務めた長泉寺で秀野の一回忌の法要があった。泰淳の回顧(『戒名と兵隊』)によれば、“健吉は武田に戒名をつけてくれと頼んだ。華麗な漢字を積み重ねて工夫した”とある。“名も知らず秋くらがりの仲間入り”と泰淳は詠み、秀野の遺骨を長泉寺の一角に仮埋葬し墓標も立てた。
 昭和50年に秀野の遺骨は八女市の石橋家の墓地
(大正元年に石橋忍月建立)に埋葬された。従ってこの墓域には石橋家の全員が揃っている。数十年前、寺が納骨堂を建立したとき山本健吉は関係者の納骨堂加入の薦めを断わった。…」 
 無量寿院と石橋家の関係には部外者には知りえない謎が多いと推察しています。



健吉の祖父・石橋養元の旧居跡を訪う

 無量寿院から八女公園(福島城址)へ。公園で種田山頭火と小島直紀文学碑を調べ、これまで一台も出会わなかった車、それも幸運にもタクシーを拾って、最終行程に入る。
 市の中心から少し離れた新町の花宗川の川畔に健吉の祖父・石橋養元の旧居跡があり、そこには健吉の父・石橋忍月の「花掃けば花より抜けて蝶飛ベリ」の句碑が座っていました(平成13年4月建立)。碑陰には「石橋忍月18651926、明治草創期の文芸評論家、弁護士、長崎市・県会議員 明治40年ごろ養父・養元(眼科医)のために診療所兼邸宅を此処に建てた。訪れた忍月の三男貞吉(山本健吉)らは前の花宗川で水泳を楽しんだ」と刻まれていました。
 傍らには桜の老樹が枝を広げていたが、季節ではなかった。代って隣家の紅梅が咲き誇っていました。


八女の文学碑
 頂いた『八女市文学碑巡り』には17基の文学碑が紹介されていました。
 その内15基を駆け巡りました。ここまでに紹介できなかった主な八女市の文学碑を簡単に記しておきます。
 中薗英助文学碑・横町記念館:中薗は大正9年八女に生まれ旧制中学校(現・八女高校)まで八女で過ごした。後、中国大陸に渡る。戦後八女に帰ることなく上京して純文学や推理小説『夜よシンバルを鳴らせ』『鳥居龍蔵伝』『闇のカーニバル』などで活躍。読売文学賞その他を多数受賞。平成14年歿、82才。碑文は中薗が論文などに多用した「歴史に空白あるべからず」という言葉を自筆で刻み、平成17年に建立。
 種田山頭火句碑・八女公園:「うしろ姿のしぐれてゆくか」は山頭火の傑作のひとつです。『山頭火全集』の「行乞記」には昭和61224日八女到着一泊と記す(当時50歳)。この時に碑句が作られています。平成12年5月3日八女公園で句碑が除幕されました。山頭火の日記の文字を拡大模刻したので「すがた」は日記のまま「姿」と表記されています。
 小島直紀文学碑・八女公園:「志」を説く伝記作家・小島直紀は大正8年、当地生。「人間勘定」で芥川賞受賞。八女高校など地元の高校教諭を務めながら「志」「人間学」「坂本繁二郎」などを発表。八女市の文化発展にも貢献。平成20年89歳で歿。碑文には「」と大きく掲げ、愛読した佐藤一斎「言志後録」から「血気には老少有りて 志気には老少なし」と添えていました。少し離れた右手の副碑には代表作の表紙を掲げている珍しい文学碑でした。
       
  
                         中薗英助文学碑:種田山頭火句碑:小島直紀文学碑
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