長くなりますが、名吟の理解を深めるため、健吉と親友の評を記しておきます。
 「彼女の病中吟において極まったのである。そこには死を前にして絶体絶命の生命の慟哭が聴かれるのである。…彼女は正岡子規や川端茅舎の病中吟に見られるような強さを好んだ。そしてその精神力の強さが、彼女の病状の進行を私たちの目からさへも蔽っていた嫌いがある。…(一部表記改変)
 句友・清水基吉の評「必死に母のあとを追いすがる子をふり捨てるように、母を乗せた担送車は滑り出して行く。降りしきる蝉時雨のほかには、しんとして音もない病廊は、秀野にはふたたび戻ることのないこの世の道でもあった。この句を最後に、句帳は余白をのこしたまま永遠に閉じられた。…(「意中の俳人たち」に筆者加筆)
 夫婦句碑は簡素で美しかった。天寿を全うし、文化勲章の栄誉を受けるまで上り詰めた健吉、一方、戦中戦後の夫不遇の時代を共に生き延び、その苦労が呼び寄せた病に倒れて夭折した秀野、今に思えば、明と暗の人生を送った二人が、故郷で固く手を取り合っている見事な句碑でした。



夢中落花

 夫婦句碑の脇に堺屋の倉庫がありました。今は図書館に移設されている健吉の記念館「夢中落花文庫」は扉を閉じ、木製の看板だけが無造作に転がっていました。
 裏門を出ると、掘割脇に「夢中落花」と彫られた標柱
(祖父・石橋養元の眼科診療所の門柱)が、傍らの柳の枝に顔を撫でられていました。
 健吉の達筆を眺めていると日本人が追い求め続けた究極の美である“夢中落花”を代表する西行の歌「春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり」が舞い降りてきました。健吉は「こぶし」だが西行は「さくら」だと、土蔵の白壁に映し出される吉野山の山桜を夢み心地で眺めていました。この歌が、清和院の斎院での歌会で「夢中落花」という題が出された時に詠んだ歌であり、「夢の中で落ちる花。春の風が、桜の花を乱々と散らしゆく夢を見た。目覚めてもまだその儚さと凄絶さ、妖艶さに狂おしく胸が騒いでいる(白洲正子「西行」)」と解されます。在原業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし−古今集」を西行が引き継ぎ、更に、健吉へと受け継がれているようです。日本人の美意識がここにあると感じ入った次第です。

 
健吉・秀野の掃苔

 健吉の祖父・石橋養元の旧宅を写真に収め、無量寿院の石橋家の掃苔に向かいました。
山本健吉・秀野夫妻は浄土宗無量寿院本堂裏の「石橋氏累代之墓」に眠っていました。寺院の墓地には歴代住職の墓の他、数基の墓碑が立つだけであったのは意外でした。それ故、「石橋家累代之墓」はすぐに見つかりました。
 墓碑の右側末尾には「宝池院秀譽瑠璃妙相大姉 石橋秀野 昭和23年(22年の間違い)9月26日没 39歳」と刻されている。一方、健吉と後添えの静枝は墓碑ではなく、新設された墓誌に本名だけが刻まれていた。
 大寺にしては少ない墓碑群、戒名のない健吉の墓碑…と謎の多い石橋家の墓地でした。
 以下に八女市の古老の話を引用してその間の事情を想像してみたい。

      
  
                  無量寿院山門:石橋家墓域:坂本繁二郎筆塚と野見山句碑

                              −p.03−