先ずは奥庭にある当地出身の中薗英助文学碑「歴史に空白あるべからず」を調べ、六畳二間を埋め尽くす雛人形の展示に圧倒されながら雨宿りさせてもらいました。
 「足元の悪い中、ようこそ。街は“雛の里・ぼんぼり祭り”開催中です」と熱い八女茶と干菓子が振舞われた。「八女の文学碑を訪ねて横浜から参りました」と告げると、『八女の文学碑巡り』と題した小冊子が差し出された。
 のんびりと銘茶を楽しむ余裕もなく、白壁の町並みと、家々に飾られた箱雛を写真に収めながら、旧堺屋の内庭に座る健吉・秀野夫妻の夫婦句碑に急ぎました。



山本健吉・石橋秀野夫婦句碑

 交流館から5分ほど、その間人に出会うこともなく、堺屋(旧木下家・元酒造業)の豪勢な屋敷に着きました。間口は狭かったが、母屋、広い中庭、離れ座敷(明治41年建築)、日本庭園…と奥に広がる広大な敷地の民家でした。
 案内標柱「山本・石橋秀野句碑(祖父・石橋養元の眼科診療所の門柱)を門番に、細かい砂利を敷き詰めた枯山水の内庭は箒目も鮮やかで、桜御影石に黒御影石を嵌め込んだ句碑(平成11年5月除幕)は小雨に濡れて一層、輝きを増していました。
 庭石を伝って句碑に近づく。
 右側に健吉句碑「
こぶしさく昨日の今日となりしかな(自筆)」を置き、左側に秀野句碑「蝉時雨児は擔送車に追ひつけず(自筆)」を少しだけ後ろにずらして、ほぼ同じ大きさの石を並べていました。上から眺めると二つの石は一分の隙もなく見事に噛み合って一つの句碑を形作り、そこに八女の石工職人の技術の高さを見て、夫婦句碑の名にふさわしい風情を感じ取りました。
 夫婦句碑の碑陰には夫々短い略歴が刻まれていました(カッコ内は筆者補足)
 「山本健吉(石橋貞吉)明治40年長崎市生、昭和63年没。文芸評論家。慶応義塾大学国文卒。(折口信夫に師事。日本の古典詩歌に精通し、古典作品と現代文学との関係の究明に力を注いだ。昭和30年『芭蕉』で新潮社文学賞を受賞)。芸術院会員。日本文芸家協会長。文化勲章受章」
 健吉の碑句は昭和63年の作で健吉の絶句。長女・安見子は「夢の中で知人の葬式に行き、死んだ人をしのんで作った句を、目が覚めてから思いだして書き付けた。夢のなかにコブシが咲いていたという」と句を解説しています。
 碑後方には句に因んでコブシを植えていました。この木に咲く花は「白」なのか「薄紅」なのかと思案し、昭和63年5月7日、遠藤周作夫妻らに看取られながら、肺性心による急性呼吸不全によりに逝った健吉の脳裏には果たして何が浮かんでいたのだろうかと思いを馳せながら句碑を眺めていました。
 一方、秀野句碑の碑陰には「石橋秀野(旧姓・藪)俳人。明治42年奈良・天理市に生。(昭和4年、俳句評論家の山本健吉と結婚、石橋姓となる)文化学院にて与謝野晶子、高浜虚子に学ぶ。横光利一・石田波郷らに師事。石塚友二らと相知る。句文集「桜濃く」は第一回川端茅舎賞を受賞。(石田波郷主宰の「鶴」を代表する女流俳人として活躍。昭和22年、39歳で病没。師の横光利一は「第二の岡本かの子になる人だった」と評し活躍が期待された。代表句には碑句の他「曼珠沙華消えてしまひし野面かな」「西日照りいのち無惨にありにけり」「短夜の看護り給ふも縁かな」などがある)
 もう先刻ご存知のことばかりでしょうが、句碑について補足を記しておきます。
 碑文となった句は昭和22年7月危篤の秀野が京都宇多野療養所(京都市右京区鳴滝音戸山町に現存。仁和寺から広沢池途上右手で、筆者は二度ほどその脇を通った)に入院した時の絶句です。「児」は長女の安見子。「擔送車」は聞きなれない言葉ですが、現代表記ならさしずめ「救急車」。文字は石橋秀野の筆跡を拡大模刻したと解説書にありました。
          
                       夫婦句碑遠景:夫婦句碑:「夢中落花」記念碑
                              −p.02−