この頃のベートーヴェンについてのロランの言葉を記して置きたい。

自己の内部へ閉じこもり、一切の人々から切り離された彼は、自然の中に浸ることだけを慰めとした。自然がベートーヴェンの唯一の友、安息所であった」
 「田園交響曲のほとんど全部が自然のいろいろな歌声とささやきで編み上げられているともいえる。ベートーヴェンは(自然音を)模倣描写したのではない、何となれば彼には何にも聴こえはしなかったのだから。彼は、自分にとっては消滅している世界を、自分の精神の内から再創造したのである。小鳥たちの歌のあの表現があれほど感動を与えうるのは正にそのためである

「ハイリゲンシュタットにはここ以外に“田園作曲の家”など滞在した家が幾つも残り、標識が壁に貼られていますが、往時の雰囲気はありませんのでご案内は致しません」との女史の説明であった。こちらの足ももつれて来たのでその決断を歓迎した。

           
           (「遺書の家」2階の入口:裏庭に残された井戸:緑溢れる裏庭)

別の日、ウィーンの森(南部)のバスツアーでシューベルトの「菩提樹」作曲の地、ステンドグラスの美しいハイリゲンクロイツ修道院、小説「うたかたの恋」の舞台マイヤリング修道院を訪れた。
  帰途は県道210号線を走った。ガイドはバーデンの手前で「間もなくバーデンの街です。ここではベートーヴェンは少なくとも7つの家に住みました。この辺りの森は第九交響曲の構想を練りながら散歩した場所です。ほら、あそこにベートーヴェンの小径が見えます」と紹介した。しかし、あっと云う間の出来事で写真も残せなかった。

 第二章 引越魔ベートーヴェン:ウィーン旧市街

ベートーヴェンは16歳で故郷・ボンを離れて以降、全生涯をこの大都会の陰気な場末で暮した。ウィーンの町は、彼のように衿恃を持った人物には、終始冷酷であった。戦いの場となったウィーンでは実に80回も転居したと伝わる。その理由は「気難しい性格」「自分勝手な振る舞い」「経済的理由」「盗聴を恐れての転居」…と諸説あるらしい。事情は単純ではなさそうで本人に聞くより他ないが、その術はない。

  ハイリゲンシュタットを歩いた後、32番の市電に乗り旧市街地を目指す。
 女史は車窓に現れる第三番「英雄」を作曲した「エロイカハウス
(Döblinger Hauptstraße 92番地。記念館)や「シューベルトの生家(Nußdorfer Straße 54番地)を指さし教えてくれた。
  彼女は「音楽史上で一番功績を遺したのはモーツアルトでもベートーヴェンでもなく、ハイドンだ」と強調した。「耳のハンディを乗り越え、強力なパトロンの支えもなく、今尚、大勢のファンを持つベートーヴェンが一番だ」と反論したかったが、音楽に詳しそうな女史には到底勝ち目はなかったので、黙ってご高説を拝聴した。
  ウィーン大学前の停留所で市電を捨てた。丘に登ると「パスクヴァラティハウス記念館」が待ち受けていた(Mölker Bastei 8番地。1804年から断続的に何回も居住。パスクヴァラティの名は当時の家主の名前)
  勝手知った場所らしく、何の標識もない裏口の扉を押した。暗く細い螺旋階段を4階まで攀じ登り、貧乏人しか住まない天井の低い屋根裏部屋の記念館に入った。
  自筆の楽譜や手紙が数多く展示され、デスマスク、銅像、楽器などが並んでいた。ドイツ語の展示は猫に小判で、丁寧な説明をあんぐりと口を開いて聞くだけで終わった。窓の外にはベートーヴェンが眺めていた空が広がっていた。それは彼の心象風景を現す如く曇って重かった。
              
            (パスクヴァラティハウス記念館正面入口:内部の風景:窓の外)

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