(ベートーベン旧居:同・記念標識:ベートーヴェンの小径標識)
 林女史曰く「ベートーヴェンは毎日のようにこの道を散策しました。暁から夜まで帽子もかぶらず日光の中または雨の中を、独りで交響曲7番「田園」の想を練りながら、歩き廻っていました。…」
 そんな説明を聞くと唯の小川も由緒ありげに見えた。頭の中を「田園」の軽やかな旋律が流れるに任せて、立ち並ぶ別荘を眺め、今尚残されている森の空気を浴びながら歩いた。
田舎ではどの樹木も“聖なるかな、聖なるかな”と私に話し掛けているようだ。森の中の恍惚!音楽とは啓示であり新しい美酒である」とのベートーヴェンの言葉が浮かんで来る頃には、小公園の標識が現れ、川の畔の緑の海にベートーヴェンの胸像が漂っていた。
           
          (ベートーベンの小径:ベートーヴェンの休憩所:同胸像拡大)
 「遺書の家」に入る(Probusgasse 6番地。この家で弟に遺書をしたためたので「遺書の家」と呼ぶ)。四角の建物が狭い中庭を囲んでいた。ベートーヴェンが借りていた二階部分の部屋への階段を登るとウィーン市の経営する記念館、その反対側にはベートーヴェン協会の経営する記念館と二つの部屋が「遺書を書いた部屋はこちら」と客引きする(女史の話ではウィーン市の方が優勢で、協会側は閉まっていることが多い)。「遺書のコピー」を含め室内の展示は貧弱で、これでは遥々訪ねて来た人が失望するだけだとの感想を抱きながら、女史の話に耳を傾けた。
 「ベートーヴェンは決して“天才”ではなかった。天才とはモーツァルトのように楽譜に向かう前に既に頭の中で曲が完成している者のことを言うのだと思います。モーツァルトの楽譜は殆ど修正した跡がありません。一方、ベートーヴェンはひとつのメロディを書くだけで何度も何度も書き直しています。有名な「運命」の冒頭もさんざん試行錯誤して、真っ黒になるほど下書きを繰り返したことが諸資料を見ればわかります」。
 「交響曲第5番運命と双生児とも呼ばれる交響曲第6番田園は、1801年の夏、彼がその自然の風景をこよなく愛していたこの地で作曲されました。同時期に作曲されたにもかかわらず、この2つはまさに対照的な性格をもっています。「運命」が極めて凝縮され、精神的な迫力をもっているのに対して、「田園」は自然の持つ開放感のある安らかさが溢れています」
窓の外に目をやり、あふれる緑に癒されながら持参した遺書の抜粋(片山敏彦訳)を開く。

偉大な善行を成就しようとすることを、私は常に自分の義務だと考えて来た。…人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった…私はまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。私を引き留めたものはただ”芸術”である。自分が使命と自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。…

襲いかかる苦しみを意志の力で克服しようとする強靭な精神力に、偉大なベートーヴェンを感じ、読めないままに「遺書」のレプリカに見入った。
 不意に、長い間お供に連れて歩いてきた「悩みをつき抜けて歓喜に到れ! Durch Leiden Freude(学生時代の筆者の机の前に飾られ、常に筆者と共にあったベートーヴェンの言葉)が目を覚ました。しばらくの間、遠く遥かな日々に降りていると、緑あふれる窓の外に残された古い井戸がにじんで見えて来た。
  静かなひと時であった。筆者を包む空気は「運命」に響き渡る低重音ではなく、「田園」に示された「今、ここに生きています」の喜びであった。
 遥かだった道程に感謝する、幸せな時間を過ごした。

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