ウィーン紀行:私のベートーヴェン
はじめに
ウィーン紀行は昨年10月のフランス中部・ヴェズレーでノーベル賞作家R・ロランの終焉地を訪れたことに始まる。秋色に染まった聖マドレーヌ教会に続く石畳を歩き、ロランの書斎から庭を眺めていると、ベートーヴェンをモデルにした代表作『ジャンクリストフ』の世界が浮かび上がって来た。それ以来、ベートーヴェンの足跡を探すウィーン紀行がずっと脳裏から離れなかった。
私のウィーンはモーツアルトでもシトラウスでもなく、ただひたすらに「ベートーヴェン」であった。
公開されている三つの旧居・記念館、更に、「第五番初演のウィーン劇場」「第九番完成の旧居」「終焉地」…と記念碑を探し、葬儀の教会や墓地も訪ねた。
これは、ロランの『ベートーヴェンの生涯』(片山敏彦訳。以下の引用は単にロランと記す)を携え、歩き疲れて悲鳴を上げる足をその言葉でなだめ、せっせと歩いた私のウィーン紀行である。
(ロラン旧居・永眠の地:保存されている書斎:書斎からの風景)
紀行は持参した本の序章に示されたロランのベートーヴェンへのオマージュで始めたい。
「彼の芸術家としての偉大さについては、すでに十分に多くの人々がそれを賞賛した。けれども彼は音楽家中の第一人者であるよりも、さらにはるかにそれ以上の者である。…彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である」
散歩の前に簡単にベートーヴェンの生涯を記して置こう。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは1770年ドイツのボンで生まれた(生家の外観のみ既見)。16歳でウィーンへ、当時30歳だったモーツアルトに弟子入りを希望するが果たせず)。22歳でハイドンに師事して音楽家人生を始める。
しかし、音楽家としては致命的なダメージとなる難聴を発症。
32歳で「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き自殺まで考えるが、遺書に示された言葉を借りれば、“芸術”に支えられ死から脱出した。
演奏家が作曲家を兼ねるこの時代に、作曲専業の音楽家という新しい道を切り開き、病気と向き合いながら次々に名曲を作る。特に34歳(1804年)から44歳(1814年)までの十年間は彼の黄金期で第三番「英雄」、第五番「運命」、第七番「田園」などの交響曲やピアノソナタ、協奏曲、オペラなど後世に残る名曲を次々と発表。54歳で最後の交響曲・第九番「合唱付」の大作を残した。
宮廷やパトロンに仕える道を選ばず、後継者にも恵まれず、天才が故の性格の強さが人間関係を難しくして孤独な日々を過ごし、1827年、57歳でその生涯を閉じた。
第一章 危機と蘇生:ハイリゲンシュタット
地下鉄4号線を終点のハイリゲンシュタット駅で降りた。そこはウィーンの森の外れであった。駅の売店前でガイドの林女史とランデブー。37番のバスを利用して「ハイリゲンパーク」で下車。5分も歩くと今は居酒屋になっている旧居跡に着いた。その居酒屋・マイヤーを門外から眺め、マロニエの木の葉が一枚一枚と風に舞う、エロイカガッセの道を北上する。石畳みは歩き難く800mほどで小川に沿った「ベートーヴェンの小径・Beethovengang」に入ってほっと一息。
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