北海道層雲峡「ゆくりなく土中にみちたる上代のメノコのすがたおもひかなしも」
群馬水上町小日向歌碑の道「木下ゆくほそ谷川は大利根の神代なりけり水上のさと」
③足立区東岳寺「めになみだこよひは月のなきものを
ふさくらかうすあかりせり」
④目黒区五百羅漢寺「原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ」
葛飾区奥戸宝蔵院「衆生あり所願成就のよろこびを代々に伝へし御佛ぞこれ」
山梨小淵沢道の駅「八ケ岳に夏の日させど小淵沢 秋早くしてひぐらしのなく」
吹田市千里南公園「和田津海の沖に火もゆる火の国にわれあり誰ぞやおもわれ人は」
広島尾道市文学の小道「ちち母の声かと聞ゆ瀬戸海にみ寺の鐘のなりひびくとき」

 柳原白蓮のトリビア
伊藤伝右衛門との離婚を果たし、長男・香織と西池袋の宮崎邸で親子三人水入らずの生活を始めたのは大正12年の関東大震災の後であった。華族からは除名され、弁護士・龍介は結核で伏し、父・宮崎滔天が残した莫大な借金を背負って、一家はそれまで経験した事のない経済的困窮に直面する。白蓮は筆一本で家計を支えた。
因みに、宮崎龍介の父・宮崎滔天(とうてん)は辛亥革命の立役者・孫文を支援した革命家である。その縁で龍介夫妻は昭和6年と昭和31年の孫文祝典に国賓として招待され、毛沢東主席・周恩来首相と共に臨席した。(宮崎蕗苳『白蓮-娘が語る母燁子』)。
龍介の弁護士事務所は独身時代の花子が編集者として活躍した教文館のビルにあったという。すれ違いではあるが村岡花子と宮崎龍介も細い糸でつながっている。
宮崎龍介と白蓮は長男・香織と長女・蕗蓼(ふき)を授かった。学徒出陣した長男・香織は終戦の直前に戦死。華道家になった長女は後に早稲田大学名誉教授宮崎智雄(応用化学・平成15年没)を養子に迎えて宮崎家を継いだ。智雄は龍介・白蓮夫妻の墓を建て、今尚表札に名前を残している。智雄の息子が表札にある「宮崎黄石」である。現在88才になった宮崎蕗蓼氏はお元気で西池袋の家を守っておられるとか。
大正-昭和初期、大田区馬込が文士村だったが、豊島区池袋一帯は貧乏画家の街。熊谷守一を中心とした「池袋モンパルナス」が全盛であった。
 この池袋に児童文学の花も咲いた。柳原白蓮旧宅の近くの文学遺跡を記す。
*江戸川乱歩旧居跡:西池袋5-15-17:旧居建物・書庫の土蔵が現存。
*坪田譲治旧居跡:西池袋2-32-20:白いアパートで往時偲ぶ縁は何もない。
*池島信平旧居跡:西池袋2-14-6:門柱のみ残る(表札はなし・元文芸春秋編集長)
*鈴木三重吉旧居跡:目白3-18-6:「赤い鳥社記念」案内板(千種画廊)。


  「花子とわたし」の三人の女性は「大正時代は女性活躍の時代 (馬込文士村解説)を己が信じる夫々の分野で見事な花を咲かせた。
  軽井沢の片山廣子の周辺のことについては筆者が長い間馴染んできた世界なので書きたいことが一杯あるが紙数が尽きたので別の機会に譲りたい。

(2014.08)

       
                    「花子とアン」の世界
(TV画面から)

 
                         -p.07完-