大正12年関東大震災が発生。離婚が成立した燁子は長男・香織とともに西池袋に住む宮崎龍介のもとへ。以後、柳原白蓮の筆名で文芸活動を再開。昭和10年に歌誌『ことたま』を創刊主宰。 昭和20年には苦労して育てた香織が終戦を直前にして戦死。その悲しみから立ち直るべく平和運動家として全国行脚を開始して活躍。昭和の半ば頃からは緑内障を患い、次第に視力を失う。龍介の手厚い介護のもと、娘夫婦に見守られ、歌を詠みつつ暮らした穏やかな晩年であったと云う。
  昭和42年池袋の自宅で享年82歳の白蓮は静かに息を引き取った。葬儀委員長は元首相の片山哲が務めた。
 
 柳原白蓮の足跡:旧居(飯塚市・東京都豊島区西池袋)
  白蓮の九州での足跡と云えば石炭王・伊藤伝右衛門が建てた三つの豪邸である。
  炭鉱の街、福岡県飯塚市の本邸、赤銅御殿と呼ばれた福岡市中央区天神の別邸、別府市青山町8番地の別邸であるが、保存・公開されているのは飯塚市幸袋の豪邸だけで、福岡と別府(現・小公園。歌碑あり)は跡形もない。
  平成19年に森鴎外文学碑を探しに飯塚市を訪ねたが、門から庭をから眺めただけで引き上げた。帰宅後市内に3基もの白蓮歌碑が建立されたことを知り悔しかった
  今春、池袋に残る宮崎邸を訪ねた。
 JR池袋駅・南口から700mほど南へ歩いた「上り屋敷公園」のすぐ南(西池袋2-15-6)に東京大空襲にも焼け残った白蓮旧居がある。大勢の食客を庇護した広大な屋敷は高い板塀で囲まれていた。通用口(下記写真右手)には「宮崎智雄」「宮崎黄石」「滔天会」「ことたま会」の表札が掲げられているのを確かめ、外観を写真に収めて、鈴木三重吉の旧居を探しに細い道を南に歩いた。
        
      (飯塚市白蓮旧居-2階が燁子の居室:東京西池袋旧居:展覧会ポスターの白蓮)

 柳原白蓮の足跡:歌碑
  村岡花子や片山廣子には記念碑だけであるが、白蓮には30基(訪問済12基)もの歌碑がある。
   一番苦労して探訪した北海道層雲峡の、原始林の奥に埋もれて居た歌碑紀行は「いしぶみ紀行第22号-2007年:北海道・安足間」に書いた。
  訪問した12基の歌碑の一部写真とその碑文を掲げ白蓮の歌の世界を紹介したい。
北海道層雲峡メノコ沢:群馬水上町小日向歌碑の道:東京足立区東岳寺:東京目黒区五百羅漢寺

(東京葛飾区奥戸宝蔵院:山梨道の駅小淵沢:吹田市千里南公園:広島尾道文学の小径)
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