片山廣子の足跡:軽井沢旧居
  片山山荘は混雑を極める旧軽井沢銀座通の一本西側、聖パウロ教会道から別荘地帯に入った651番地に典型的な軽井沢の山荘の姿で今も残る。落葉松の巨木が美しいこの山荘を中心にして室生犀星、芥川龍之介・堀辰雄などが集い軽井沢文学界を展開した。
  片山廣子を取り巻く人々の間では廣子と龍之介の恋仲は有名であった。軽井沢滞在中の二人は「信濃追分村の分去れ」や「県境の碓氷峠」にまで遠出している。堀辰雄の『ルーベンスの偽画』『聖家族』『美しい村』などには二人をモデルにしていることを伺わせる場面が幾つも登場する。
  芥川龍之介は自死の一ヶ月前の昭和2年6月に堀辰雄の案内で山王の片山廣子の自宅を訪問した。筆者は自死を覚悟した芥川龍之介が恋人・片山廣子に態々別れを告げに行ったのではと想像している。芥川龍之介の白鳥の歌『或阿呆の一生』は「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と喝破した有名な一行で始まるが、第三十七には「超し人」と題して片山廣子を語っているので引く。
  「彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。「風に舞ひたるすげ笠の何かは道に落ちざらん わが名はいかで惜しむべき 惜しむは君が名のみとよ
         
    (片山廣子軽井沢山荘:堀辰雄山荘-軽井沢高原文庫公開中:室生犀星旧居-公開中)

片山廣子のトリビア
 片山廣子は片山貞治郎と結婚後に住んだ東京都文京区千駄木の地(文京区向丘2-20日本医科大学同窓会館)は夏目漱石の旧居 (家屋は岐阜県犬山市の明治村に移築)で訪ねる人も多い。この家には、明治23年から2年ほど森鴎外が居住、明治32年頃 は片山夫妻が住んだ。片山夫妻の後、明治36年から39年まで夏目漱石が住み、『我輩は猫である』の傑作を執筆したので「猫の家」の名で呼ばれる。現在「夏目漱石旧居記念碑」が建ち、塀の上には銅製の猫が歩いている。片山夫妻はその後、東京から鎌倉扇ヶ谷を経て、明治38年から前述の馬込文士村に住む。
300首の短歌を収録した歌集『翡翠』は詩人・野口米次郎(彫刻家・イサムノグチ父)の卓 抜な序、片山廣子の短歌の師・佐佐木信綱の序が続く豪華版。大正5年の「新思潮」に、芥川龍之介(当時24)が唖苦陀という名で『翡翠』の批評文を寄せ、「幼稚な部分はあるが果敢に新境地を目指している」と高く評価。 筆者の好みの歌5首を引く。
 冒頭詠「何となく眺むる春の生垣を鳥とび立ちぬ野に飛びにけり」
 
翡翠詠「よろこびかのぞみか我にふと來る翡翠の羽のかろきはばたき」
 
鎌倉詠「白鳩ら羽やすむらんみどり濃き扇が谷に春のあめふる」
 
軽井沢詠「月見草ひとり覺めたる高原の霧にまかれて迷ひぬるかな」
 最終詠「いのらばや弱りはてぬる心もて今日のおもひに堪へん力を」
③芥川龍之介に「クチナシ夫人」と呼ばれた片山広子は典雅な人だったが、「自分のみぐるしいかたちを写真にのこしたくないとカメラから逃げまわっていた」とのことで、ほとんど写真が残っていない。貴重な一枚が『片山廣子・孤高の歌人』に掲載されている 。前掲のレリ-フより遥かに美人で、大正三美人の一人・柳原白蓮に引けを取らない。 お見せできないのが残念。

 柳原白蓮の足跡:略歴

  柳原白蓮は明治18年東京市麻布で柳原前光伯爵の妾腹の子として生。本名は燁子(あきこ)。叔母愛子(前光の妹)の生んだ大正天皇とは従兄妹にあたる。明治41年、東洋英和女学校に入学。在学中に佐佐木信綱の竹柏園歌会に入門。初婚に失敗した27歳の燁子は明治44年伊藤伝右衛門(当時50歳:飯塚市の出身の明治・大正期の「炭坑王」と呼ばれた実業家。衆議院議員も務めた政治家としても活躍)と再婚し、福岡県飯塚市幸袋の伊藤邸に住む。大正4年処女歌集『踏絵』上梓。竹久夢二装丁の緑色の表紙も素晴らしく好評を得る。大正9年、燁子(33歳)の前に、六つ年下の東大法学部二年の学生・宮崎龍介が現れ、世間を騒がせる恋が芽生える。大正10年、世にいう「白蓮事件」が世間の耳目を集めた。
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