村岡花子の足跡:旧居
 花子の住んだ馬込文士村は三回(平成10・23・25年)に分けて訪ね、文学館、旧居記念碑、文学碑など全ての文学遺跡を歩き尽くした。
 二回目の紀行はJR蒲田駅から目蒲線で池上駅へ。池上本門寺の墓地で幸田家(露伴・文)の掃苔を果たし、大田区中央4丁目・子母沢寛旧居、同3丁目・村岡花子旧居と歩いた。
 大森赤十字病院入口の信号で右折(西へ)、200m進んだ右手が目指す「中央3-12-4」。一戸建ての家だと思い込んでいたので一帯を歩くが見つけられず、今一度ひと回りして角地の3階建てマンションの奥まった壁面に「イングルサイドマンション」「村岡花子文庫・赤毛のアン記念館」の標識を見つけた。(一階が村岡家の居宅。前もって予約すれば記念館の見学可)記念館内部は写真で見ていたのでパスして交流が濃かった山王3丁目の片山廣子旧居に急いだ。
     

           (大森駅馬込文士村の村岡花子レリーフ:村岡花子旧居:同・表札)

 村岡花子のトリビア(trivia・豆知識・雑学
馬込文士村:大正末期から昭和初期、東京府荏原郡馬込村(現大田区山王・南馬込一帯)
に多くの文士・芸術家が住み、「馬込文士村」と呼ばれるようになった。
JR京浜東北線の大森駅北側には区が設えた「馬込文士村銅版レリーフ」
(山王2-8天祖神社脇)が壁に嵌め込まれている。宇野千代、尾崎士郎、川端康成、北原白秋 、日夏耿之介、三島由紀夫、室生犀星、山本周五郎、山本有三など43人の肖像がならぶ。無論、村岡花子の笑顔と片山廣子の澄まし顔もある。
各人の旧居地に案内板を置いて散歩の便宜を図っている
(何故か村岡花子 と三島由紀夫だけは旧居記念碑がない。三島邸には今も「三島由紀夫」の表札が残る)。また、文士村の中心人物だった尾崎士郎や徳富蘇峰の旧居跡は記念館として保存公開されている 。
 第2次大戦時、東洋英和女学校で村岡花子が学んだカナダ人宣教師ミス・ショーが日本を去るに際し『赤毛のアン』の原書を花子に託す。花子は灯火管制のもと翻訳を続け、空襲の時には大切に抱いて防空壕に避難したという。昭和27年に三笠書房から出版された『赤毛のアン』は日本の読者にも広く受け入れられ、今も読み継がれている。
 大正13年、長男・道雄を失った村岡夫妻はその後子供に恵まれなかったので花子の妹・梅子の長女・みどり(昭和7年生)を養女とする。そのみどりの娘で花子の義理の孫にあたる村岡恵理がドラマ「花子とアン」の原作者であり、現在は「赤毛のアン記念館」館長を務めている。記念館のある花子の旧居に掲げられた「イングルサイドマンション」の名前は『赤毛のアン』シリーズ第7巻「炉辺荘(イングルサイド)のアン」に由来する。アンが愛する家族と苦難や喜びを分かち合い暮らした家の名前である。

 片山廣子の足跡:旧居
  村岡花子の旧居から片山廣子の旧居案内碑(東京都大田区山王3丁目45)まで700mほどだった。都心の大動脈の環状7号線の歩道脇で片山廣子旧居案内碑は同じく3丁目に住んだ山本有三の記念碑と並んで車塵を浴びていた。
  少し戻った所から狭い路地が南へ伸びる。100mほど辿ると右手に「プラムハイツ山王」の看板を掲げた瀟洒なマンションがある。山王3丁目15の広大な片山邸宅の現況だが、往時を偲ぶものは何も残されていない。
  大森駅前までは20分ほどで届いた。文士村入口の大森駅前で休憩しながら、持参した資料で片山廣子の処女歌集『翡翠』を読み、片山廣子の軽井沢に思いを馳せた。
  
 (馬込文士村レリーフ:山王三丁目旧居案内碑:山王三丁目旧居現況:文京区の漱石旧居碑)

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