(顕鏡寺・山門:顕鏡寺墓地・柳原白蓮の墓)
  蝉の声だけが聞こえる静寂の中で、持参資料に記してきた辞世の歌「月影はわが手の上と教えられ さびしきことのすずろ極まる」をぼそっと吐き出した。遠くの草叢に一本の白い山百合がほっそりした顔を覗かせていた。その可憐な姿は「大正三美人」の一人ともてはやされた白蓮を連想させた。
  一世を風靡し、活躍した、二人が何故にこんな不便な地に奥津城を構えたのか…と坂道を下りながら考えた。「都の高貴な若君と姫君が許されぬ恋に落ちこの地に隠棲した。二人の子供がこの寺を開基した」との寺の縁起にヒントがあるのではと勝手に思い込んで寺を後にした。

 村岡花子の足跡:略歴
  「花子とアン」をご覧なっている方は先刻ご承知だろうが簡単に略歴から始めたい。
  村岡花子(旧姓・安中はな)は明治26年山梨県甲府市に生。10歳で名門家族の子女が通う東洋英和女学校に給費生として入学。少し遅れて東洋英和女学校に入学した柳原白蓮と共に、カナダ人のブラックモーア宣教師から英語を学ぶ。高等科在学中から先輩の片山廣子の勧めで童話を書き始める。持ち前の才気と努力で無事に卒業。佐佐木信綱「心の花」に入会して短歌、古典文学を学ぶ。教文館(当時は出版社も経営)に勤めて編集者として活躍。そこで印刷業を営む村岡儆三と出逢い、大正8年に26歳で結婚。またまた片山廣子に導かれて、現・大田区中央3丁目に自宅を構え、この頃盛況を極めた馬込文士村の住人となる。夫の印刷会社を奪い去った関東大震災(大正12年)の悲しみが癒えぬ大正13年には長男・道雄を喪う悲劇が重なる。悲しみを乗り越えるべく、童話集『赤い薔薇』、マーク・トウェイン『乞食と王様』の翻訳など矢継ぎ早に上梓し、児童文学界に躍り出る。昭和前期にはNHKで「ラジオのおばさん」として活躍するという新天地も切り開く。昭和27年、戦火から必死で守り抜いた、M.モンゴメリ『赤毛のアン』の翻訳を出版し、ベストセラーとなる。昭和35年に児童文学に貢献した功績で藍綬褒章を受章。昭和43年、享年75才の生涯を終えた。
  
  村岡花子の足跡:東洋英和女学校
  村岡花子の足跡を追って、東京都港区麻布の東洋英和女学校跡を訪ねた。
  地下鉄・六本木から、右手に六本木ヒルズの高層ビルを眺めて、南へ下る。「東洋英和女学院小学校」と「本部・大学院・東洋英和女学院高等部」が鳥居坂を挟んで広がる(大学は横浜市緑区に移転)。花子が通った時代は木造の校舎だったが、本部・大学院の建物は昭和初期にアメリカ人建築家・ヴォーリズが建てた名建築として今も聳えている。
  本部の扉を開くと一階に「村岡花子コーナー」が設置され、自筆原稿、初版本、関連写真などが展示されている。小さいながら村岡花子文学館の様相である。
  花子ワールドを見た後、久しぶりに銀座4丁目の教文館を訪ねた。丸の内に勤務していた時代(八重洲ブックセンターが出来るまで)、日本橋の丸善と銀座の教文館は新刊書の宝庫で馴染みの書店であった。無論、そこが花子縁の地とは知る由もなく…。
        
              (東洋英和女学院大学院:同・村岡花子展示:銀座・教文館) 
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