片山廣子は明治11年、東京の麻布三河台の一角で生。父親はニューヨーク総領事。村岡花子の先輩として東洋英和女学院に学び宗教的、文学的、西洋的素養を身につける。同校を卒業後、佐佐木信綱に入門し短歌を学ぶ。歌誌「心の花」に創刊時から参加して将来を嘱望される。21歳で、後に日本銀行理事となる片山貞次郎と結婚。大正5年処女歌集である『翡翠』(かわせみ)を刊行するも、溢れる才気は歌壇だけに身を置くことを好まず。その後は「松村みね子」の名でアイルランド文学の日本における先達として、マクラオドの『かなしき女王』などを翻訳出版して高い評価を得る。大正9年に夫・貞治郎に先立たれ、昭和19年に東京・杉並区浜田山に移住。翌年には長男・達吉を失って、以後は孤独な日々を送る。75歳で第二歌集の『野に住みて』を上梓。昭和31年『燈火節』でエッセイスト賞を受賞。昭和32年、享年80才の生涯を閉じた。交流範囲をあまり拡げず、歌壇・文壇から一線を画した、孤高の生涯だったと思う。
       

              (染井霊園・片山廣子墓:同・高村光太郎墓:慈眼寺・芥川龍之介墓)
  平成18年4月、染井霊園の桜が満開になるのを待ちかねて、予てから計画していた芥川龍之介の墓参を実行。JR山手線の巣鴨駅で降り、とげぬき地蔵にお水をかけて手を合わせ、染井霊園(東京豊島区駒込5)に足を踏み入れた。目指す「1−イ−6−6」の片山家の墓域は直ぐであった。
  四つ辻の一画に、この時代に珍しい個人墓5基が立ち並ぶ。左側に両親と夫・貞次郎の3基、右側に廣子と息子・達吉の2基が並んでいる。夫と並ばず対峙する形で墓碑を建てた廣子の気持ちを推し量りながら、その墓碑左側で「昭和32年3月19日 80歳 謙徳院廣室妙大姉」を確かめた。
  愛読する堀辰雄の初期の作品『聖家族』の一節を書き写した持参資料に眼を落す。
小説の冒頭に「死があたかも一つの季節を開いたかのやうだつた」と置き、廣子をモデルにした「細木」が芥川龍之介をモデルにした「九鬼」の葬儀に参列する場面からロマンが始まっていた。木陰で軽井沢の片山廣子ワールドに思いを馳せるひと時を過ごした。
  この霊園に隣接した慈眼寺に芥川龍之介が眠っている。直線距離で僅か300mの距離である。芥川龍之介の墓に詣でることを習いとしていた片山廣子の後姿を追って、静かに身を起し慈眼寺への道に足を向けた。当地・染井村が故郷の桜花「染井吉野」が咲き誇っていた。慈眼寺の墓地では芥川龍之介が染井霊園の廣子の背中を眺めていた。如何にも生前の二人の関係を示唆するようで微笑ましかった。

 柳原白蓮掃苔録
  柳原白蓮の掃苔には相当な勇気がいる。神奈川県下に眠る著名文学者(160人)の中でも飛び切り不便な所に眠っている。
  お墓のある相模原市緑区寸沢嵐は平成18年に相模原市に編入されるまで津久井郡相模湖町と呼ばれていた。県の西端に近い閑散とした山村である。最寄りのバス停から石老山(標高700m)を目指して2kmの登りを歩かなければならない。中腹に「石老山・顕鏡寺」がある。そこに柳原白蓮の墓があるとの情報を得ていたが、その不便さの故に訪ねる勇気が湧かなかった。隣の藤野町に童謡「夕焼小焼」歌碑が建てられたとの情報もあり、猛暑にもかかわらず横須賀のウサギさんの車で走ってもらった。平成19年の夏であった。
  早朝に横浜を出発し、50kmの距離を2時間弱で走り抜け、顕鏡寺への登りに取付いた。車の威力で杉木立の中に「石老山」との立派な額を掲げた山門には直ぐに届いた。先ずは大銀杏を侍らせた本堂に参詣し無事に掃苔できることを祈願。駐車場から緩やかな坂道脇に広がる墓地に足を踏み入れた。
  一基一基と「宮崎」の名前を探しながら登る。墓地の中程の「歴代住職の墓域」背後に「宮崎家之墓」を発見した。両脇につつじをあしらった広い墓域の右側に墓誌がある。筆頭に「石老院大観龍光居士
昭和46年1月23日宮崎龍介78才」の名前、続いて「雅号・柳原白蓮  妙光院心華白蓮大姉  昭和42年2月22日 宮崎Y子82才」の名前を見つけ大きく息を継いだ。墓碑の左側を探ると「昭和58年 宮崎智雄建立」とあった。墓碑や墓誌は龍介・白蓮夫妻の長女で華道家・宮崎蕗苳(ふき)の夫で早大名誉教授の宮崎智雄が再建した推測した。
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