いしぶみ紀行「花子とわたし」
NHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」はすこぶる好評で、何と視聴率25%と朝ドラの新記録を達成したとのこと。このところは筆者もその流れに乗ってTVに釘付けとなっている。主人公「村岡花子」、腹心の友1「柳原白蓮」、腹心の友2「片山廣子(現在未登場)」の三人を題材にして、「花子とわたし」を書きたい。
お盆も近いのでの三人のお墓参りの話から始める。
村岡花子掃苔録
村岡花子の掃苔は偶然の産物だった。
花子の墓が久保山墓地(横浜市西区元久保町3)にあることは早くから判っていたが、広大な墓地(12万㎡墓は1万4000余基)で詳細な区画が判らなければ訪ねようもなかった。ここには英文学者・吉田健一も眠っているので管理事務所で道順を教わった。
遥か彼方に横浜のランドマークタワーが霞んでいる。眼下に目をやるとまるで大地震によって陥没したかのような地形の底の方(K14区画)に吉田家の広い墓域があった(墓地の中央「かるべ茶屋」の少し先の三叉路を左折し、100m下った右側)。中央に豪商として活躍した吉田健三の墓碑が建つ。黒々とした巨石で異様な面構えである。元首相・吉田茂の長男だった吉田健一の墓は祖父・健三の背後に隠れていた(平成23年吉田健三の養子で元首相の吉田茂は東京の青山霊園から当地に改葬された)。文芸評論家・中村光夫が揮毫した「吉田健一墓」は白く頼りなげで、好物の酒の世界に遊ぶ粋人の姿であった。
(村岡花子墓:道を挟んで左に村岡家墓と右に吉田家墓:吉田健一墓)
管理事務所で探してもらっても判らなかった、村岡花子はこのネクロポリスの何処に眠っているのか…と立ち並ぶ墓標を眺めわたし、吉田家の墓域から細道に降りた。
想いが通じたのか、偶然に目の前に「村岡家」と彫られた墓碑を発見した(K51区画)。吉田健一の振舞い酒に酔ったのかと目を見張った。
手を合わせて墓域に入らせていただく。墓誌はなかったが、碑側を辿ると「夫・儆三永眠により、1963(昭和38)年、花子建立」とあった。「これだ、間違いない」と墓碑の裏側を確かめた。「村岡平左衛門」を筆頭に16名の俗名、没年、享年が溢れんばかりに並ぶ。13番目に夫の儆三(けいぞう)「昭和38年2月6日歿77才」、次いで花子の名が並び「昭和43年10月25日歿75才」と彫られていた。
この偶然を何と考えれば良いのかと首を捻りながら坂を登った。愛読してきた片山廣子、芥川龍之介、堀辰雄と連なる軽井沢の人脈の中で、村岡花子を大森の馬込文士村に呼び寄せた片山廣子が引き合わせてくれたと考える以外に思い当たる節はなかった。
片山廣子掃苔録
村岡花子のお墓に導いてくれた片山廣子の掃苔録を記したい。片山廣子って誰?と思う人もあろうかと、簡単に略歴に触れる。
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