更に、その先の本堂前右手には、今回初めて見る「梁塵秘抄」の歌(今様)「佛は常にいませども うつつならぬぞ あわれなる ひとの音せぬ暁に
ほのかに夢に 見えたまふ」が川端康成の癖字で刻まれていた。また、本堂前左手には頭部に戴く「樋口一葉観音」に因んだ「一葉日記(明治27年3月)」の一節が一葉の自筆で刻まれていた。現代人には到底読めない細やかな草書体であり、解説・案内も無かったので悔しい思いで寺を後にした。 出札口の女性に「ラロン行の往復切符を下さい。申し訳ありませんが代金をこの紙に書いて下さい」とドイツ語で書いた紙を差し出し、何とか往復切符を手に入れた。 何故か「マウント富士号」とのプレートを付けたBrig行きの電車は静かにホームを離れた。乗換駅のVispまで約70分。Vispで一駅先のラロン行の普通電車を25分も待つ。自転車旅行の若者を乗せた鈍行列車は定刻にホームに入線。ローヌ川畔の小さな村の玄関・ラロンに着いた。 道案内なしでも辿り着くべく用意してきた村の地図を片手に濁流のローヌ川を越え、丘の上の「城教会」を目指す。急な坂道だったので息が上がり、何度も何度も休憩しながらの道行であったが何とか無事に教会の墓地の裏門に辿り着いた。墓地で花を手向ける一人の老婦人に会釈して、村人の眠る墓地から離れ、独りだけ教会の壁面に寄り添うリルケの墓と対峙した。 詩人・リルケの掃苔は、長い間の、憧れであった。 素朴な木の十字架には「R・M・R」とあった。蔦に覆われた壁面には大理石の墓碑が埋め込まれ、「RAINER MARIA RILKE」の名前とリルケ自身が選んだ有名な墓碑銘「薔薇よ、おお、純粋な矛盾の/悦びよ、/誰の眠りでもないという。/かくも多くの/瞼の下で(小塩節訳)」が刻まれていた。 真っ赤なバラに埋めつくされた墓域にはガラスのケースが置かれて中にドイツ語の詩集が収められていたが詩集の名は読み取れなった。 高台の教会を吹き抜けてゆく風が優しく頬を撫でた。 「リルケさん。はるばる憧れて日本からやって来ました。ようやくお会いできましたね。貴方が晩年過し、『ドゥイノの悲歌』を完成させたミュゾットの館はこの近くのシエールの町の郊外にあることを突き止めましたが、ここまで来るのが精一杯で、ミュゾットはお訪ねできません、お許しください。貴方の詩集から「鎮魂歌」を抜き書きしてきましたのでお供えします。それにしても貴方の詩は私には難しすぎます」と未だ理解の届かぬ弁解を添え、用意してきたノートの詩を呟いた。 |