それは堀辰雄の小説『風立ちぬ』の最終章に引用されているリルケの「鎮魂歌・Requiem」の一節であった。
 「帰っていらっしゃるな。そうしてもしお前に我慢ができたら、 死者の間に死んでおいで。死者にも沢山仕事がある。けれども私に助力はしておくれ、お前の気を散らさない程度で、屡々 遠くのものが私に助力をしてくれるように――私の裡で
  
本数の少ない各駅停車の電車の時間もあって、長居は出来ず、何度も振り返り、教会を写真に納めながら丘を降りた。来た道と違う村の中心を通る道を選んだが、一人の村民も見かけず乾いた道が駅に向かって伸びていた。ただ家々を飾る美しい花々が村民の優しさを告げていた。
  ラロンからV
ispに戻り、また20分ほど待ってツェルマット行きの電車を捕まえた。キオスクで仕入れたハイネケンビールが無事に念願を達成した身に深く浸み込んでいった。
            
          (ラロン村城教会リルケ墓:村中からの城教会遠望)

*  宿願の「神奈川の文学碑」を出版した自分へのご褒美のスイス10日間の旅は本場アルプスの絶景の数々に息を呑み、よちよちと歩いて念願の「リルケ掃苔」「新田次郎文学碑再訪」「セガンチーニ美術館」とを訪ねた旅で、全行程「快晴」という天の配剤に恵まれ印象深い旅であった。

      (アイガー北壁:アイガー山麓の新田次郎記念碑:マッターホルン)

*  R・M・リルケ(1875−1926)は、オーストリアの詩人、作家。プラハに生まれ、プラハ、ミュンヘンの大学に学び、若くして『形象詩集』『時祷詩集』などで独自の言語表現へと歩みだした。1902年よりパリで彫刻家・ロダンと親交。パリでの生活を描いた『マルテの手記』を発表し絶賛を浴びる。第一次大戦後スイスに移住、晩年の大作『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』を完成させた。日本では堀辰雄が早くから親しみ紹介した。遥々この墓を訪ねた堀辰雄夫人や辻邦生の著作が小生のラロン熱に火をつけた。 

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