いしぶみ紀行・新美南吉(愛知県半田市)


真菜ちゃんへ
  横浜のスピーチコンテストで、学校を代表して行ったスピーチはとっても素晴らしいものでしたね。会場で聞けなかったのは残念でしたが、運動会を見に行った時に、当日のVTRを見せてもらいました。沢山本を読んで、一生懸命に考えて、立派に発表した努力に拍手を贈ります。
  ところで“新美南吉”という名前の人を知っていますか。「東の(宮沢)賢治、西の(新美)南吉」と評され、小学校の教科書に掲載されることの多い童話や詩を書いた人です。短い生涯で残した作品は少ないのですが、その何れもが深い感銘を運んできます。おーちゃんはこの人の作品が好きで沢山読みました。新美南吉さんの足跡を二回に分けて歩きました。今日はそのお話をしましょう。


新美南吉ってどんな人
  新美南吉(親しみをこめて“南吉先生”と呼びます)は大正2年(1913年)に愛知県半田市の岩滑(いわなべ)という所で生まれました。4歳でお母さんを亡くし、さみしい幼年時代をおくりました。岩滑小学校から半田中学校(昔の中学校で今の高等学校)に進学、このころから文学に興味を持ち、童話や詩を発表し始めます。
  小学校時代から勉強は良く出来ましたが、身体が弱かったので、師範学校(先生になるための大学)の試験には身体検査で落ちてしまいました。やむなく、母校・岩滑小学校で代用教員をしながら創作を続けました。その後、東京の外国語学校(大学)に進み、真菜ちゃんも知っている、北原白秋、鈴木三重吉、巽聖歌などの先生に教えてもらいながら文学の勉強に励みました。
  大学卒業後は、安城高等女学校(今の安城高校)の先生をしながら、童話や詩を書きました。しかし、病気(結核)にかかり、昭和18年(1943年)に29歳の若さで世を去りました。童話『ごんぎつね』『手袋を買いに』、詩『デンデンムシの悲しみ』『貝殻(かいがら)』などの作品を世に残しました。
  短い生涯でしたが、故郷を愛し、真実を探し求めた南吉先生は、物悲しい印象を読者に与えながらも、あふれる優しさを持った作品を多く書き、今も新鮮で、多くの読者に感動を与えています。


新美南吉の生い立ち
  南吉先生の生まれた半田市は日本列島の中央、名古屋湾東側の知多半島の中程に位置する町です。 町の北端に近い岩滑中町の交差点から少し北へ進むと、新道と旧道の三叉路が現れます。すると「新美南吉生家」の案内板が目に飛び込んできます。旧道を50mも進むと細長い平屋の生家(復元)が秋のひざしを浴びていました。
  家の前には南吉先生が遊び場にした、江戸時代の、古い常夜燈が昔の姿のまま建っています。数人の客が解放された家の中や、家の右手脇にある南吉先生の句碑「冬ばれや 大丸煎餅(せんべい) 屋根に干す」、左手脇にある「新美南吉生い立ちの地」と記された記念碑などを眺めていました。
  おーちゃんも南吉先生のお父さんの仕事場(畳屋さん)やお祭りのちょうちんなど見てきました。南吉先生の生まれ育った家は、狭く、みすぼらしい感じで、お金持ちではなかったことがうかがえました。
   貧乏人の子供は、小学校を卒業すると父の仕事を継ぐか、よその家に奉公にゆくのが、この時代の普通の生き方でした。が、小学校で何度も表彰されるほど優秀な成績だったので、担任の先生が、もっと勉強させるべきだとお父様を説得してくれて、半田中学校に進学しました。南吉先生は友人から本を借りては読み、文学への興味を深め、その才能を開花させはじめました。
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