車は原生林を掻き分けて旅館の立ち並ぶ温泉街へ。温泉神社で大町桂月の漢詩碑を調べ、温泉街の西の外れの原生林まで歩く。
  入口には足湯、原生林の中へは温泉客のための道が設えてありました。
  「遊歩道の先の方に原田康子文学碑があります」との案内だったので、ゆったりと森林浴をしようと歩き出す。100mも歩かない内に、左手に黒御影石がぬっと出て来て、一瞬、熊かと心臓が音を高めた。
  岳樺の林に囲まれ、「挽歌」文学碑は有り余るフィトンチッドを浴びていました。小説の舞台が釧路と川湯温泉(文中では「K温泉」)なのでその縁で建碑された文学碑です。
  木漏れ日を浴びる碑面には『挽歌』の終章から「わたしはゆっくり温泉町の通りを歩きだした。日射しの強くなりかけた火山灰地通りに、噎せるような硫黄の濃い匂いがただよい、修学旅行の少女たちが白い花片のように群れていた」と自筆で刻まれています。
  碑の造型は釧路・幣舞公園の文学碑の方に軍配をあげますが、結ばれぬ恋の長編には、樹海の中にひっそりと身を沈めている小さな文学碑の方が似合っています。
  原生林の奥にあった「川湯エコミュジアム」と入口の足湯で休憩をとり、小説に登場する町の通りを歩きました。時間が早すぎたのか、立ち並ぶ旅館や土産物店には人影はなく、可憐な少女にも出逢いませんでした。
        
            (摩周湖からの硫黄山:川湯温泉・原田文学碑:弟子屈町・虚子句碑)
小説『挽歌』:敗戦による失意を引きずりながら、戦後を生きようとする建築家・桂木と、偶然の縁で知り合い、”侵入者”となって行くヒロイン”兵藤怜子”。不倫の愛が、不毛と憂愁をたたえて広がる「釧路湿原」を背景に、描かれる。戦後の復興期を脱して高度経済成長に向かおうとしていた昭和29年の作品で、従来の日本文学のもつ雰囲気とは異質な「西欧的な文学世界」がベストセラーとなった要因。『挽歌』は暗いイメージにふさがれていた北の小都市・釧路を”霧にむせぶ街””原始のロマン・湿原の街”として道東の観光都市に変貌させたとも言われる。
  
  ログハウス風の川湯温泉駅から釧網本線の列車に。原生林の中を突っ走った列車は、車窓に「エゾシカ」「丹頂鶴」「斜里岳」を映し出して、知床斜里駅に飛び込む。
  釧網本線は、ここから直角に曲がって、西へ進路を取ると、すぐに黒いオホーツクの海が現れました。
  生田原町(網走の西100km)の文学碑公園で14基ものオホーツク海を題材にした作品を刻んだ文学碑を見て来たことなど思い出しながら、暮れゆく海を眺めていました。
  黒い海は陽の傾きと歩調を合わせていっそう黒さを増し、空を茜色に染めて陽が落ちる頃、漸く、終着の網走駅に着きました。
  高校時代に少ない小遣いを貯めて買い求めた、志賀直哉の初期の短篇小説『網走まで』がとうとうここまで連れて来たのかとの思いでした。
  小説には東京上野駅で乗車した母子の行先が網走であるというだけで、実際の網走は一つも書かれておらず、名前に惹かれて買ってがっかりでした。だが、「網走まで」というタイトルが、何かしら「終着」と「最果て」の雰囲気を漂わせ、暗いイメージを抱かせて記憶に残ったのです。
  暮れなずむ網走駅はそんな昔のイメージそのままでした。 3泊4日の長旅の前半は網走到着で終わりました。
  
  ご体験された所ばかりだったと思いつつ、「あざみの歌」のご報告を申し上げたいばかりに、長い手紙を書いてしまいました。
  どうか、お元気で、待ちに待った秋をお楽しみ下さいますよう。
                      −p.05完−