確かに、観光資源として啄木を利用していることは否めません。でも、町のあちらこちらで、釧路の人々が建てた高価な石の歌碑を見るにつけ、啄木への愛情が溢れているのを感じざるを得ませんでした。 そうです。啄木は釧路で、未だ、生きていました。
         
          (釧路米町公園・啄木歌碑:米町路傍・啄木歌碑:富士見町・「あざみの歌」)
  釧路の啄木紀行の最後に「あざみの歌」の碑をご報告しておきます。
  全国の唱歌・童謡碑を巡っておられる貴方様には嬉しいニュースですよ。
  文献に「富士見町、ミッチェル洋裁学校」としか紹介されていない歌碑所在地の確定には苦労しました。「富士見町・ミッチェル」を頼りに、おおよその見当をつけて出かけました。運よく、「アトリエ・ミッチェル」の看板を掲げたブティックに出くわしました(店主の話で昔は洋裁学校だったこと確認)。白御影石に刻まれた「山には山の憂いあり 海には海の悲しみや まして心の花園に 咲きしあざみの花ならば(横井弘作詞、八洲秀章作曲)は健在でした。八洲秀章の自筆の歌詞の脇には洋裁学校の校章であったピンクのあざみの花が添えられた美しい出来栄えでした。
  三時間歩き通した足を幣舞公園で休め、暮れゆく幣舞橋を眺めて参りました。
  啄木の明治、怜子の昭和、そして平成が同居している釧路には霧と暗い湿原が似合うというのが第一印象でした。


釧路湿原から摩周湖へ
  釧網本線を走る一両の列車には釧路湿原見物客がずらりと席をしめ、各々、窓にかじりついていました。
  出発して10分ほどで市街地を抜け、釧路湿原が顔を出しました。ここから延々30kmの間、列車は湿原の中を時速60kmで駆け抜けます。木々の切れ間から湿原が顔を出し、その広さを感じる度に車内に歓声。釧路川が車窓を横切ると景色は変化を増し、雲間から光が降ると、カメラのシャッターの音が一段と多くなりました。
   突然、「ピー」と甲高い警笛をならして列車は急にスピードを落とした。「何事か」と総立ちになりましが、「エゾシカが線路を横切ったのだ」との声に、ほっと胸を撫で下ろす一幕もありました。
  三重の厳重な窓を解放すると18℃の涼風が飛び込んできます。大自然の中に「ゴー」とジーゼルの音が吸い込まれて行きます。そんな時間が「釧路湿原」「塘路」「芽沼」・・・と続きました。その一瞬を切り取ろうと、修学旅行の生徒に還った気分で、狭い客車のあちらこちらを走り回り、湿原の旅を十二分に味わいました。
   「ツルの来る駅・五十石」からは、今度は、「ツル」を探して車窓にへばりつくありさま。「あ!あそこに丹頂鶴!」と声を上げる間もなく列車は走り過ぎました。その頃からは、湿原に変って、牧草地帯が続きました。牧草地帯特有の匂いと大地に転がった牧草のロールケーキにお腹を膨らませたところで、「標茶(=しべちゃ・駅名)」のサービス。美味しいお茶が終わると、モダンな摩周駅が現れました。
              
                                    (釧路湿原疾走)
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