(幣舞公園・原田文学碑:港文館−元釧路新聞社社屋:同左・啄木像と歌碑)
その先で釧路川を背にした小公園を見つけました。明治41年1月に啄木が降り立った釧路停車場跡から移設されてきた啄木銅像と歌碑「さいはての駅におりたち雪明かり さびしき町に歩み入りにき」(啄木の恋人だった小奴の筆)が故郷・渋民村を眺めていました。銅像の脇に旧釧路新聞社の社屋を復元した「港文館」。二階は啄木の資料館で、啄木時代の釧路の写真や啄木の書簡などが展示され、小さいながら充実していました。街灯や車止めにまで啄木の歌のプレートが飾られ、啄木一色の公園。ここまでやるのか・・・といささか啄木に食傷いたしましたが、これはまだ、前菜に過ぎませんでした。
南大通も啄木一色でした。啄木ゆかりの要所(「下宿跡」「小奴経営の近江屋旅居跡」「よく通った料亭への道」など)には歌を刻んだ9基の歌碑が建っています。「小奴といひし女のやわらかき 耳朶なども忘れがたかり」、「こほりたるインクのビンを火にかざし 涙ながれぬともしびの下」、「あはれかの国のはてにて酒のみき かなしみの滓を綴るごとくに」・・・と何れも釧路での詠でお馴染のものばかり。
歌碑の横を、胴体に啄木の肖像と歌を描いたバスが通り過ぎたのには驚きました。幣舞橋の北側は大都会でしたが、昔栄えたこの南側の一帯はすっかり寂れて、観光客も来ないと云うのに・・・。
釧路港が近付くと南大通は終りを告げ、啄木時代に栄えた港町・米町です。高台にある米町公園は釧路港が一望でき、絶好の観光地と釧路市は宣伝していますが、啄木ファン以外には期待外れの所です。
展望台の脇に高浜虚子句碑「灯台は低く霧笛は峙(そばだ)てり」が黒く光っていました。公園の一番奥では啄木歌碑「しらしらと氷かがやき千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」が港を見下ろしている。昭和9年に釧路に始めて建てられた(全国でも三番目に早い)有名な歌碑です。写真で馴染んできたものと違った印象で、白御影石はつい最近建てられたように真新しかった。昔は、この碑の背後は海だった。初めて接した歌碑の写真には海が確かに映っています。今は、ずっと先まで埋め立てられ、うら寂しい風景です。極寒の時期に来て「しらじらと氷かがやき千鳥なく・・」風景を見て見たいものですが、昨今の暖冬では、望めそうにありませんね。
レンガを模した敷石の米町の大通りを弁天浜まで歩きました。姿を見せない釧路の人々に代ってコスモスやグラジオラスが小さい秋を告げていました。花々に囲まれて4基の啄木歌碑。何れもが個性ある縞目石に彫られ、良く手入れされて見事でした。弁天浜で米町大通りは終わり、そこから先は青黒い海。浜辺を覗くと壊れかけた番屋。百年前に啄木が見た風景を拾いました。
大通りから一本北側の道路を米町一丁目まで戻るとこの通りにも4基の啄木歌碑。大通同様の仕立てで、各々、存在を主張する歌碑群でした。
米町1丁目から浦見町8丁目の坂道を登ると、往時、釧路第一の豪勢さを誇っていた料亭・しゃも寅の跡です。その庭にあった井戸だけは保存され、今も、清水を汲み上げていて、ここでも啄木の釧路を感じました。残された狭い庭には深尾須磨子の句碑「しゃもとらの水に汲む北の心」が座っていました。この付近には啄木歌碑が4基存在するので、右往左往して、何とか探し当てました。 つかの間の釧路在住だったのに、これほどまで、釧路の人々に愛されたのは何故でしょうか。飢餓に苦しむ岩手に生まれた天才が、己を頼み、必死で生き、世に足跡を残した姿に、天の恵みが少なく、不毛の湿原と極寒の気候に苦しむ釧路の人々が畏敬の念を抱いたのではないでしょうか。
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